二十七の巻
「碓氷峠」4




by 戸田采女

 緊迫した一夜が開け、藩邸の新たな一日が始まった。

 表御殿で執務が始まった頃、りんりんと鈴を鳴らし高山藩邸に早飛脚が届いた。お長屋で仮眠をとっていた右近のもとに、一通の手紙が届く。

 右近は昨夜からの緊張と疲労で未だ倦怠感を覚えていたが、
「誠之進?!」
差し出し人の名を見て右近は血相を変えた。

 包み紙を解くのももどかしげに開封し、食い入るように書状を読み始めた。

『本日、大宮宿泊まりとあいなった。明日の夜には板橋宿に入り、脇本陣に泊まる予定じゃ。実は三郎ぎみは関川の加賀屋に乗り物を残し、我らとともに徒士(かち)で旅をしてこられた。旅程を縮め、一刻も早く父君にお会いしたい一心からじゃ。なれど、若君の初の藩邸入りが徒士では物笑いの種になる。まことに無理を言うてすまぬが、乗り物と六尺を数人、脇本陣の豊田屋敷までよこしてくれぬか?』

「誠之進…無事だったのだなっ」
右近は思わず叫び、書状を握りしめて息をついた。

 貴公が崩落に巻き込まれて死ぬなど、ありえぬと思うていた。きっと生きておると信じておったが…。

「まったく…殿といい貴公といい、私は昨日から生きた心地がせなんだぞ」
右近は薄く滲んだ涙をぬぐい、あらためて夜具の上に大の字に寝転がった。

 誠之進の無事を知り、右近はただひたすら安堵していた。こみあげる嬉しさに頬が弛んで仕方ない。

 右近は起き上がって書状の日付けを確かめた。
「大宮に一昨日泊まっておるのか。ならば早ければ昨日の夕、遅くとも本日昼までには到着じゃな。ならば急ぎこちらも用意をせねば…」

 今の今まで心が浮き立っていた右近だが、よく考えれば迎えるのは三郎ぎみご一行である。 人前ならば取り繕うところだが、今は長屋でひとりきり。右近は天井を睨み、仏頂面で呟いた。

「三郎の乗り物なぞ…なにゆえ私がといいたいところだが…」

(ほかならぬ誠之進の頼みじゃ。即刻手配しよう)
そう己に言い聞かせる右近であった。

 ふたたび私情を抜きにした、公人としての考えが頭に浮ぶ。

「されど…このような時、誰が迎えにいくのが適当なのか?」

 若君の迎えとなれば、本来は留守居役だろう。だが殿様の容態も峠を越えたとはいえ、堀田は今藩邸を離れられぬ。信輝公の側用人、青木からの一報が行っているだろうが、自分もこれから惣一郎様の元へ参上し、昨夜からの殿様の経過をお伝えせねばなるまい。

 加えて、誠之進の手紙の書き方からして、あまり仰々しい迎えは望んでおらぬ様子。

「うむ。ここは…仙之丞に行ってもらうか。こちらの用意は私と堀田様で」
右近は寝転がったまま容(かたち)を改めると、
「よし、それでいこう」
気持ちを切り替え、しゃっきりと身を起した。
まずは堀田の役宅へ相談に向うべく、土間へ降りて冷たい水で顔を洗った。 
 
                   *     

 板橋宿は中山道の起点であり、江戸側から順に平尾宿(下宿)、仲宿(中宿)、上宿の3宿で成り立っていた。

 誠之進と三郎一行は、右近への手紙に書いた通り、昨夜、平尾宿の脇本陣『豊田屋敷』で旅装を解いた。地方の宿場町なら本陣に泊まってもよいのだが、板橋宿の本陣は大名や皇族など貴人の宿泊が多く、大名家の子息とはいえ世嗣でもない三郎が泊まるには遠慮があった。脇本陣あたりが適当と誠之進は判断した。参勤交代の季節からは外れているため、宿をとるのに苦労はなかった。

 ところが今朝一一。

 朝餉が終わらぬうちに、主従はひと悶着おこしていた。
「ここまで来て、なにゆえじゃ、誠之進!」
「ですから、迎えが来るまでお待ちくださりませ」
上座で焦れたように叫ぶ三郎を、誠之進が懸命に宥めている。

 三郎はなりふり構わず、今すぐにでも藩邸に駆け付けたい。しかし誠之進は殿様の容態を案じながらも、しかるべき体裁を整えて藩邸入りしたいのだった。

「国許と違い、江戸屋敷は何かとしきたりにうるそうござります。ただでさえ供回りの少ないことに加え、若が乗り物にも乗らずでは、門番にすら胡散臭く思われるでしょう」
「なれどそなたは筆頭家老の息子ぞ? 江戸にも留学しておる。藩邸の者たちは皆存じておろう?」
「あれから随分年月が経っておりまする。今はもう、私の顔を知らぬ門番や中間がほとんどでしょう」
「その者たちは当家にずっと奉公しておるのではないのか?」
「いえ、士分の者とは異なり、長きに渡り勤めるものは少のうござります」

 今、左様な講議をしている場合ではないと、誠之進も苛立ちを隠せなかった。
「大宮から既に我らの到着を飛脚で知らせてありますゆえ、必ずや誰か迎えにくるはずです。若もごねてばかりおらず、早うお支度を」
ぴしりと諭す誠之進に、
「お福の縫うてくれた、この着物のどこがいかぬ?」
三郎が不服そうに呟いた。
無論上物ではあるが、木綿の小袖に袴である。
「父君様の御前のみならず、兄上様とも初のご対面にござります。礼を尽さねばなりませぬ。きちんと絹物をお召しくださりませ」
「…そんな荷物も持ってきたのか?」
「あたりまえです。草履、足袋まで一式揃えておりまする」
誠之進は端座したまま抑揚のない声音で言った。

(さもなくば、あの御正室様になんと言って蔑まれるか、わかったものではありませぬ!)

 三郎ぎみが恥をかかぬよう心を砕いておるのに…。なかなか通じぬもどかしさに誠之進は溜息を洩らした。

「わかった…」
三郎もようやく納得したかに見えたが、
「ところで、迎えとは…誰がやって来るのだ?」
「…おそらく櫻田右近にござりましょう」
「そなた、右近に…手紙を書いたのか」
三郎が上目使いに誠之進を見つめた。
責めるような視線をひたと当てたのち、ふいと横を向いて押し黙った。

 わかっている。三郎は右近が苦手なのだ。

 隣で源蔵が目をくりくりさせて面白がっている。

 誠之進は咳払いをすると、
「櫻田は藩の留守居役添役にござります。役目柄、櫻田を通すのは当然のこと」
一瞬の間があって、
「さようか。大儀であったと声をかければよいのだな」
三郎は淡々と答え、誠之進を見上げた。
わずかに口角を持ち上げて微笑んだが、目が笑っていない。
源蔵はいよいよ喉を鳴らして笑い、倫太郎まで頬を赤らめて誠之進と三郎を見ている。

(ええい、うっとおしいのう)

「若、はよう湯を使い、こちらの小袖袴に着替えてくださりませ。源蔵! さっさと若のお支度を手伝わぬかっ」
「はいはい、かしこまりました」
源蔵はいかにも形だけ頭を下げると、
「都合が悪くなるとすぐに威張るんだから…」
それ違いざま、誠之進の背中にぼそっと呟いた。

「源蔵っ!」

「三郎ぎみ、まいりましょ」
誠之進の怒号もどこふく風。
源蔵は胸を張って三郎を連れていった。

 出立前、『決して足手纏いになるな』と誠之進に厳しい言葉を投げ付けられた源蔵だが、山中に置き去りにされることもなく、歯をくいしばって一行とともに江戸への道を歩ききった。 

 今回の旅で源蔵は相当に自信を深めたらしい。自分こそが三郎ぎみ一の側近じゃと、鼻高々である。

                  *

 湯殿で源蔵に散々磨き立てられ、三郎が座敷に戻って来た。髪を結い直し、絹の白小袖に錦糸をちりばめた挽き茶色の袴を着け、小袖とおそろいの羽織を身につける。最後に誠之進が豪華な拵えの脇差を三郎の腰帯にさし、支度は終わった。

「これは?」
「臣下の身でまことに僭越ではござりますが、父・主膳が三郎ぎみのお腰にと…」
「主膳が…」
「我が家に代々伝わる加賀の国、兼平の銘刀にござります。若が元服の折、献上いたそうと父が用意しておりました」
「なに、溝口家の家宝を私に?」
「はい。どうぞお納めくださりませ」
「そのような大切なものを…」
三郎は上等の柄巻きの感触を確かめながら、瞳を潤ませていた。
 
「ありがとう…誠之進」
「若…」

 脇に控えていた源蔵は、見つめ合うふたりに一礼すると、さりげなく退出した。背後で襖の閉まる音を聞き、誠之進はふわりと目元を和ませた。
三郎はかすかに頬を赤らめ、
「源蔵のやつ…」
「さすが一の側近。気がきくようになりましたな」
主従は顔を見合わせてくすりと笑った。

「誠之進…」
胸元に身を投げてくる三郎を、誠之進は柔らかく両腕で抱きとめた。
せっかく整えた支度を乱さぬよう、誠之進はそっと三郎の唇を捕らえた。
軽く啄むように触れ、一旦唇を離して三郎の目の奥を覗き込む。
一心に見つめ返してくる瞳に愛しさが募った。
 
 父君の病だけでなく、三郎にとって此度の江戸入りはさぞや気のはることだろう。兄の惣一郎はともかく、ご正室・牧の方に自分が疎まれていること、三郎もおぼろげながら察している。先般の、本田家への養子縁組の舞台裏など、口が裂けても三郎には言うまいが、この先も何が起こるかわからない。

(まずは藩邸内の空気を知り、情報を集めることじゃな…)

 誠之進は自分も決して気が抜けぬと、胸のうちで呟いた。

 不安や心細さを一言も口にしないが、三郎の時折揺れる瞳がそれを物語っていた。
「若、ご案じめさるな」
「わ、私は何も…」
「私が、いつもお側におりますゆえ…」
誠之進は三郎の目を見てしかとうなずいた。

 ふたたびゆっくりと唇を合わせれば、三郎のほうから舌を差し入れてきた。あくまで遠慮がちに誠之進の舌を探り当て、そっと舌先を絡ませてくる。普段ならここで三郎を抱きしめ、激しく口内を貪るところだが、いつ何時、藩邸からの迎えが来るやもしれぬ。今は自重せねばなるまい。誠之進は三郎の肩に手を置き、何度か角度を変えてやさしく唇を吸うだけにとどめた。

 ゆっくりと身を離し、お互いの視線を絡めあう。

「三郎ぎみのお姿を見れば、殿はきっとお元気になられます」
「まことに?」
必ず、と誠之進は首肯した。
気休めのつもりはなかった。
誠之進も心からそう信じたい。
三郎は薄いえくぼ浮かべて微笑み、誠之進の二の腕をきゅっと握りしめた。

「誠之進様」
襖の向こうで源蔵の声がした。 
「藩邸より迎えが参りました…」

                   *

 誠之進がわざわざ指示を出さずとも、供回りの者は全員支度を整えて玄関にうち揃っていた。三郎を先頭に誠之進、源蔵の三人が姿を現わすと、居合わせた者たちは蹲踞(そんきょ)の姿勢で一礼した。

 誠之進は右近の姿を探したが、進みでた使者は初対面の若者だった。

「三郎ぎみ、溝口様。お初にお目にかかります。それがし、惣一郎様の小姓頭、平岡仙之丞にござります。本日は留守居役添役、櫻田右近様の命を受け藩邸よりお迎えにあがりました。」

(右近の部下か。平岡という名前、聞き覚えがある…)

「平岡殿、お役目ご苦労にござる」
誠之進は早速ねぎらいの言葉をかけた。
「…平岡とやら、大義であった」
三郎も黒目がちの目を見開き、大きくうなずいた。
初対面の江戸の使者に対し、三郎はどの程度親しげに振る舞ってよいか、戸惑っているらしい。
だが緊張した様子を初々しさと取ったか、仙之丞のほうがふわりと三郎に微笑みかけた。
すると三郎の頬にもたちまち笑みが広がった。

 仙之丞は誠之進を視線を移すと、
「実は数日前、碓氷峠で崩落事故があったらしく、よもや御一行が巻き込まれてはおらぬかと、我々肝を冷やしましてござります」
「…まことか?」
「江戸についた商人から出た噂ですので、はきとはわかりませぬが…」
「それは御心配をかけ申した…」
「いえ。溝口様からの書状で、皆安堵いたしました」
誠之進は三郎と目を見交わした。

 事故がまことだとすれば、おそらく自分たちが通過してから起こったことなのだろう。誠之進は一行の運の強さを神仏に感謝した。

 仙之丞はふたたび軽く一礼すると、
「では三郎ぎみ。表にお乗り物をご用意しております。殿も惣一郎様もお待ちかねでございますゆえ、一刻も早く藩邸にお越しいただきたく…」

「あいわかった」
三郎は矢もたてもたまらぬ様子で三和土へおりようとした。すかさず源蔵が履物を用意する。誠之進も黙って三郎の後に続いた。

 仙之丞は誠之進を振り返り会釈すると、
「三郎ぎみ、こちらへ」
三郎を乗り物に誘った。

 用意された乗り物は、塗りは見事だが華美な装飾はない。華々しすぎず、みすぼらしくもなく、三郎の藩邸入りにふさわしいものに思えた。

(選んだのはこの平岡という若者だろうか? さすが惣一郎様の小姓頭、なかなか気働きのできる男だ…)

 誠之進は仙之丞の背に向かってうなずいた。

 乗り物脇に控えた六尺が引き戸を開け、三郎は中に乗り込んだ。
仙之丞は薄曇りの空を見上げ、
「これは時雨れてくるやもしれませぬ。急ぎましょう…」
乗り物脇についた誠之進と目を合わせた。

「出立!」
仙之丞の号令とともに、三郎の行列は整然と豊田屋敷の前を離れた。

 小川町の藩邸まで、あと二里にも満たない道のりだった。


碓氷峠 了




「碓氷峠」3「再会」
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