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十月十六日未明、結城因幡守信輝は二度目の発作を起したが、かろうじて一命をとりとめた。一時は生死の境を彷徨った信輝公が午後目覚めてみると、枕元には国許に残してきた三男・三郎信尭の姿があった。三郎は黒目がちの大きな瞳を潤ませて、ひとこと「父上…っ」と小さく叫び、掛け布団の上に泣き伏した。
「これ…」
信輝公はまだ力の入らぬ腕を布団の外に出し、三郎の肩を優しくたたいた。
安堵したのか、張り詰めたものが緩んだのか、三郎は父君の布団の上でさらに激しく嗚咽を洩らした。
「これ、泣くでない」
「父上っ」
「…よう江戸へまいった」
信輝公もまた瞳を潤ませながら、掠れた声でつぶやいた。
枕頭に控える惣一郎は父の意識が戻ったことを喜ぶと同時に、父の三郎への深い愛情を一瞬で見てとった。自分は元々嫡男。父君の嫡男への接し方は、末子に対するのとは違って当然。十五も年下の三郎に父を取られたなどとは思わぬが、三郎に向けられる父の慈愛に溢れた眼差しが、ほんの少しだけ羨ましくもあった。
*
あれから三日が過ぎ、三郎主従もようやく藩邸に落ち着いた感があった。
今日も中食のあと、三郎は惣一郎とともに信輝公の寝所で、静かに語らいながら時を過ごした。
「さて…父上を疲れさせてはならぬ。我らはこのへんでおいとましよう」
「はい、兄上」
「これから私の部屋へ参るか?」
三郎は兄を見上げて素直にうなずき、ふたりは口々に挨拶して信輝公の寝所をあとにした。
信輝公は夜具に横たわったまま、満足げに微笑んだ。
枕頭に控える側用人の青木忠佐衛門も、寝所を出ていくふたりの背を眸を潤ませて見つめていた。
「殿…ご兄弟まことに仲睦まじく、祝着至極にござりますな」
信輝公は胸の奥から深く息をついた。
「余も…安堵いたした」
「恐れながら…それがし、あらためて惣一郎様のご器量に感服つかまつりました」
「うむ…年も離れておるし、異腹の弟なれど心から慈しんでおる様子じゃ」
「三郎ぎみのお人柄でもありまするな」
「忠佐衛門…」
「あのように無垢な瞳で兄上、兄上と慕われては…嫌う道理がありませぬ」
信輝公は青木と目を合わせ、
「まったくのう」
軽い笑い声をたてた。
しかし笑いが収まると、信輝公ふと瞳を曇らせて続けた。
「奥があれに辛くあたるようなことがなければよいが…」
同じ不安を共有する青木だったが、殿様に心配をかけまいと笑みを作る。
「昨日、惣一郎様に連れられ、お方様への御挨拶は済まされた由にござります」
「そなたは同席せなんだのだな」
「はい。惣一郎様は三郎ぎみと誠之進殿だけを伴って、奥へ入られました」
信輝公はゆっくりと息を吐いた。
「どのようなやりとりがなされたかは…わからぬのだな」
「…御意。さりながら惣一郎様もおられたことですし、お方様もおかれましても、穏やかに三郎ぎみに相対されたことと思いまする」
「ならばよいが…」
「殿、ご案じめさりますな」
青木はしかとうなずき、首のあたりが冷えぬよう、信輝公の掛け布団を整えた。
*
上屋敷に入って数日は、中奥で寝泊まりしていた惣一郎だったが、父君の容体も落ち着いた今、敷地内の『東御殿』と呼ばれる場所に居を移していた。東御殿は正門を入ってすぐ東側にあり、本来ならば世嗣の住まう場所であった。中屋敷を好む惣一郎がそちらに居を移して以来、ほとんど利用されていなかったが、この二、三日で急ぎ畳や建て具を替え、掃除をし、惣一郎がこの東御殿に入った。三郎もこの一角に部屋を与えられて滞在している。誠之進と源蔵ら供回りの一行は、惣一郎直属の家臣とともに『東御殿お長屋』に部屋を割り振られていた。
表玄関から敷石の通路を通り、惣一郎と三郎は東御殿に向ってそぞろ歩いていた。
敷石の脇に並ぶ楓に、晩秋の夕陽が低く差し込んでいた。
惣一郎と三郎から二間ほどの間を置いて、竹弥や和馬ら小姓が付き従っている。
「三郎、夕餉までまだ時があるゆえ、今からそなたの絵を描いてやろうか」
「まことにござりますか?!」
惣一郎は僅かに口角を持ち上げ、悪戯っぽく片眉をあげた。
「そなたと誠之進の絵なぞいかかじゃ」
「は、はい。ありがたき幸せに…」
三郎は兄の半歩後ろを行きながら、思わず頬を染めた。
それを目の端で捕らえ、惣一郎が振り向く。
「おや、何を赤くなっておる」
「あ、私は…別に」
「はて」
惣一郎は後ろに続く小姓との距離を確認し、三郎の耳もとに囁いた。
「どんな絵がよいかの?」
「どんなと申されましても…」
ますます言葉に詰まる三郎が、惣一郎はおかししくて仕方ない。
(ふたりで絡みおうている姿でも思い浮かべたか?)
「ふふふ…そうじゃのう。錦に染まる紅葉の下で、仲睦まじく手を取り合って…」
ことさら思わせぶりな口調で言うと、
「あ…にうえ?」
三郎はいよいよ困ったように瞳を揺らした。
惣一郎は思いきり破顔し、
「三郎、誠之進が好きか」
一転して単刀直入に尋ねた。
「そ、それは…」
「ん? 何じゃ、照れることもなかろう? 正直に申してみよ」
「誠之進は…私が幼い頃から、それはよう尽してくれましたゆえ…」
兄の質問の意図を計りかねているのだろう。
嘘はつきたくないが、どこまで話していいのか…。
そんな戸惑いがことごとく三郎の表情に現れている。
(呆れるくらい正直な奴よのう。どこぞの誰かとは大違い…)
惣一郎はどこぞの美形の顔を思い浮かべ、含み笑いを洩らした。
(三郎はまことに愛い奴じゃ。誠之進がころりといった気持ち、わからぬでもない)
(私とて兄上、兄上と慕われれば…)
「まんざら悪い気はせぬな」
考えごとのつもりが、つい口が滑ってしまった。
「何かおっしゃいましたか、兄上」
黒目がちの瞳がじっと惣一郎を見上げた。
惣一郎は慌てて緩んだ頬を整えた。
「いや、べつに。それより冷えてきたゆえ早う中へ入ろう」
「はい」
惣一郎は三郎の背にそっと手をあてて促した。
「熱い茶と京の落雁なぞ用意させようぞ」
「はいっ」
いちいち目を輝かせてうなずく三郎に、後ろに控える小姓の竹弥も、堪え切れずに喉を慣らしていた。
*
ここは東御殿の小姓詰めの間。
声変わり前の黄色い声や、大人になりかかった少年の掠れぎみの声が入り交じり、かしましいことこの上ない。
「もっと田舎臭いかと思うていたが…」
「これ、ちと失礼ではないか」
「いやいや、どうして中々見目麗しい若君じゃ」
「惣一郎様や殿に面ざしが似ておられるな」
「うむ。気立てもよいし」
「従者の者たちが皆、三郎ぎみを慕っておるのも道理じゃ」
「従者といえば、あの溝口誠之進殿!」
「きりりとした男前じゃのう…。身の丈は六尺近く、まこと凛々しいお姿じゃ」
「うむ。私もうっとり見上げてしもうたぞ」
「剣もお強いらしい。直心影流免許皆伝じゃと。藩校時代は右近様とともに、『宗道館の竜虎』と呼ばれたらしい」
「竹弥、そのような話、おまえ何処から仕入れてきたのだ?」
「あ、それはお供の方々から少しばかり…」
いつも澄ました竹弥だが、珍しくはにかんだような笑みを浮かべた。
また別の年嵩の小姓がしたり顔で続けた。
「これ、従者などとは失敬な。御事(おこと)、知らぬのか? あの御仁は国家老・溝口主膳様の嫡男、次の筆頭家老になるお方ぞ」
「まことか、それは?」
「三郎ぎみ幼少のみぎりから、守役を勤めていらしたのだ」
「いかにも。和馬、もっと国許のことも勉強せよ」
「して、あのおふたりはやはり…」
「それはもう、一緒に並ばれると何かこう、空気の色が違うと思わぬか?」
「いかにも、いかにも」
「…あ、あのような方が守役とは、三郎ぎみも運の良いお方じゃ」
「普通守役といえばな、中年か年寄りと相場は決まっておる」
「そういえば、確か惣一郎様の守役は…」
「堀田の爺様じゃ!」
どっと笑いの渦が巻き起こったところへ、勢いよく唐紙が開いた。
「話に花が咲いておるようだな」
裃姿の稚児小姓頭、平岡仙之丞が入口で腕組みをして立っていた。
「皆が皆、雁首揃えて油を売っていてよいのか? 竹弥」
仙之丞は目に力をこめ、きっと竹弥を睨んだ。
「先輩格の御事(おこと)まで一緒になって何をさぼっている」
仙之丞は厳しく叱責したが、
「お言葉にはござりますが、惣一郎様が三郎ぎみとしばらく水入らずでお過ごしになりたいとのこと…」
竹弥も静かに反論する。
「皆、下がれと命じられました」
「で、惣一郎様はお部屋か?」
「はい、三郎ぎみの絵を描いておられます」
「なるほどな」
仙之丞は軽く溜息をついた。
小姓たちは部屋から追い出されたわけだ。で、詰めの間で茶菓子をつまみ、おしゃべりに興じていた。
なれど、いかに主人から『用はない、さがれ』と言われても、心映えの良い小姓なら、その間にやっておく仕事がいくらでもあるものだ。
仙之丞は睫の隙間から小姓たちをじろりと一瞥し、
「御事ら、くだらぬおしゃべりをする間があったら、惣一郎様の装束の御手入れでもせぬか!」
「申し訳ござりませぬっ」
小姓たちは平伏して口々に叫ぶと、色とりどりの小袖の袖を翻して立ち上がった。
「まったく…前髪の者たちは小鳥のごとくかしましいのう…」
仙之丞は呆れたように首を振った。
自分もつい数年前までそうだったことを、仙之丞はすっかり忘れ果てているらしい。
入口に立つ仙之丞に一礼しながら、皆がぞろぞろと詰めの間を出ていった。
最後にやってきた竹弥がすれ違いざま、
「仙之丞様。お顔はともかく、最近口調が右近様に似て参られましたな」
「なっ…」
目を剥いて絶句する仙之丞の脇を、
「御免」
竹弥は細面の顔にからかうような笑み浮かべ、ゆうゆうと歩み去っていった。
つづく
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