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三郎の到着以来、気持ちに張りの出た信輝公は、みるみる回復の兆しを見せた。御医師の日向道伯が厳重に量を加減しながら、『狐の手袋』の投薬も続いていた。一方、幕府への因幡守信輝の隠居願いも聞きとどけられ、老中から正式に惣一郎に跡目相続が仰せ渡された。惣一郎の藩主としての初登城の日も決まった。
三郎と誠之進が上屋敷に入って一週間が過ぎた。
ゆるりと旧交をあたためる暇もなく、代替わりの準備に追われる右近だった。その日も結城家と懇意にしている旗本への挨拶回りから戻り、一刻ほど休んだのち、ふたたび留守居組合の寄合へと出直すところだった。
御長屋のあちこちで白い煙が立ち上り、夕餉の支度が始まった頃、ふらりと誠之進が右近の長屋に顔を見せた。
「誠之進?!」
いつか訪ねてくれると期待はしていたが、まさか今日とは思わなかった。心の準備がっ…、と慌てふためく右近だったが、
「上がるぞ」
誠之進は勝手知ったる何とやらで、草履を脱ぎ早々に座敷まであがりこんでしまった。
火鉢を挟んで右近の向いにどっかと腰を降ろした。
「堀田様に聞いてな」
「え?」
「私が昔使っていた長屋に、今、貴公が暮らしておると」
「ああ、これも何かの縁だな」
誠之進は天井を見上げ、
「十八の時か。懐かしいのう…」
「ああ」
感慨深げに部屋をぐるりと見渡した後、誠之進は背後の台所を振り返った。
「ようそこで晩飯を作ったな」
右近はこほんと咳払いをし、
「作ったのは嘉助(当時の誠之進の老僕)と私だ」
きっちりと訂正した。
「私とて、手伝っただろうが」
不服そうに呟く誠之進に、
「貴公は…参加しても役に立ったためしがなかったな」
右近は口元を綻ばせてふふんと笑った。
「そのように言われては身も蓋もない」
誠之進は精悍な一文字眉を情けなく下げた。
右近は薄く微笑むと、台所のかまどをぼんやりと見つめながら、しばし追想に耽った。
『誠之進、ねぎはまだ刻めぬのか?』
『も、もう少しじゃ』
『何をしておる、浅蜊が煮え過ぎてしまうぞ』
『すまぬ…』
『どれ、私がかわろう…』
江戸へ出てきて間もない頃、学問所の知己に教わった深川丼を作ってみようと、誠之進と台所にたった日のことだ。結局、浅蜊は煮え過ぎて縮こまり、味噌も煮詰まって妙に塩辛い深川丼になってしまった。
それでも
『やはり越後の米はうまいな』
などと言いながら、ふたりは旺盛な食欲で丼飯を平らげた。
江戸詰め時代の尽きぬ思い出の一コマだ。
ぱちりと炭のはぜる音に、右近は夢から覚めた。ふたたび目の前に誠之進にひたと視線をあてる。
つい先程はふたりきりで対面する『心の準備ができておらぬ』と内心焦った。だがどうだろう…誠之進を前にして、不思議なほど心は穏やかだ。穏やかというのは語弊があるかもしれぬが、ふたりでいるのが少しも苦痛ではない。
昨年の秋、誠之進に黙って国許を去ったときは、もはや顔を見るのも辛かった。
これが時間ぐすりというものだろうか。或いは今の暖かい心地よさは、思い出が染み付いたこの部屋の魔力なのか。
何の憂いもなく、誠之進とともに江戸に学んだ日々。毎日のようにこの部屋で語り、食事を供にした頃の空気が蘇ってくる。
誠之進も懐かしげな瞳で部屋の中を観察している。今の右近の暮らしぶりを知りたいようだ。右近は誠之進のするにまかせた。沈黙は決して不快ではなかった。
ゆるりと時が流れる。
「あの位牌は?」
誠之進が目ざとく箪笥の上の位牌を見つけた。
昨日、できてきたばかりの市松の位牌だった。
右近は今朝、堀田の丹精した白菊を一輪もらいうけ、市松に供えてやったのだ。
右近は静かに口を開いた。
「あの者は私が密偵として使っていた町人でな」
誠之進の眉が曇った。
「探索の途中で敵に捕らえられ、命を落とした」
「…内藤帯刀の仕業か?」
誠之進が低く尋ねた。
内藤が江戸にあって、家老の座に返り咲くため、田安の慶久や牧の方に働きかけていたことは、すでに誠之進に手紙で伝えてある。
右近は小さくうなずき、溜息をついた。
「手を下したのは…忍びの玄海だろう」
右近はあらためて無惨な市松の死に様を思い出し、怒りに唇を震わせた。
「市松は危険を顧みず、まことよう働いてくれた。いずれ私が留守居役に昇格したら、中間として雇おうと思うていたものを‥」
「右近」
「かわいそうなことをした」
「市松とやら言う者のこと、貴公は信頼して探索を任せたのだな…」
深い声音で誠之進が慰めた。
「私も線香をあげさせてもらおう」
「かたじけない…誠之進」
誠之進はすくっと立ち上がり、箪笥に歩みよった。線香をあげ、数珠を手に位牌の前で長い間合掌した。
市松を死なせた右近の無念さを、誠之進は瞬時に理解した。多くを語らずとも、誠之進はやはり右近の思いを共有してくれる。自分が懸命に押し隠したとはいえ、誠之進への恋心だけは伝わらなんだが一一。
市松の冥福を祈る誠之進の背を、右近は嬉しさと切なさが混じりあった思いで見つめ続けた。
ふたたび誠之進が右近の前に腰を降ろした。
「で、内藤は今も江戸に?」
厳しい表情で問う誠之進に、
「いや…、市松の事件と前後して上方へ発った」
右近は悔しげに溜息をついた。
「やはり後ろ暗いことがあったのだろうな」
「うむ…」
市松が最後に探りだしたのは、帯刀と『お方様』の不義密通である。これだけはやはり誠之進にも明かせぬと、右近は口をつぐんだ。いずれにせよ内藤が江戸を離れた以上、当面こちらで探索はできぬ。国許の家老・溝口主膳にはすでに書状で報告してあり、大坂へ密偵を送り込むかどうかは主膳の判断に任せようと思っていた。
ふと会話が途切れた。話題が内藤帯刀のことに及び、右近だけでなく、誠之進も昨年の国許でのてん末に思いを馳せたのやもしれぬ。
「ところで…」
と、誠之進が声の調子を変えて切り出した。
「留守居役の仕事、いかがじゃ」
誠之進から話題を変えてくれたのを幸いと、右近は明るく応えた。
「ああ、堀田様に手取り足取り指南をうけたゆえ、おかげさまでつつがなく勤めておる。それに、正式には私はまだ添役だしな」
「なれど、殿の御隠居とともに堀田さまも退かれるのだろう?」
「そのご意向だ」
静かに首肯する右近に、
「貴公、老中や旗本への挨拶回りで忙しそうだが、身体は大丈夫か?」
誠之進がじっと目の奥をのぞきこむように尋ねた。
「今宵も寄合があってな、これから日本橋の料亭まで出向かねばならぬ」
「酒には強い貴公でも…宴席が続くと辛かろうな」
労るような声音で誠之進は溜息をついた。
「案ずるな、誠之進。私も昔とは違うて少しは要領がよくなった。上手に人に酒をすすめ、自分はなるべく飲まぬ術も心得ておる」
「ほう、それはそれは」
片眉をあげて笑う誠之進に、
「何じゃ、少しは世慣れたとでもいいたいか?」
右近は睫の隙間から誠之進を軽く睨んだ。
「いかにも」
「こいつっ」
右近と誠之進は目を合わせ、快活な笑い声をたてた。
「のう誠之進、惣一郎様の将軍家への拝謁が済んで一段落したら…一度一緒に彦四郎を訪ねぬか?」
「おお、それはよい!」
膝を叩いてうなずく誠之進に、
「帰りにこっそり軍鶏でも食いにいこう」
右近は声を潜めていった。
「おっ…」
誠之進の目が悪童のごとく光った。
「そういば…留守居役に門限はなかったな」
「そういうことだ」
右近は自慢げに胸をはった。
留守居の特権を悪用したことはなかったが、たまには大目にみてくれと右近は胸の中でつぶやいた。
彦四郎や舅殿には市松の件で随分世話になった。殿のご容体も安定した今、一度挨拶に出向かねば思っていた。
国許から誠之進が出てきたことを知れば、彦四郎もさぞ喜ぶだろう。
連日の疲れも吹き飛ぶほど、誠之進との語らいは楽しかった。一緒にいるだけで気分が引き立つ。この数カ月、自分が再び友として接することができるのか、不安に苛まれていたのが嘘のようだった。
案ずることはない。ふたりの友誼は今も健在だ。
無論、一度はそこにひびが入ったことを、ふたりとも忘れてはいない。
されど誠之進と右近のどちらもが、ふたりの友誼を無二の宝と思い、傷を庇いつつ、掌で包み込むように大切に守ろうとしていた。
辛い話を蒸し返さずとも、このまま以前のような、肝胆相照らす仲に戻れるのなら一一。
何と引き換えても失いたくなかったのは、こんな他愛無いやり取りではなかったか。
誠之進は右近の求めに応じ、国許の右近の母や孫作のこと、今年の作柄が良好だったこと、右近の元部下、勘定方の筧真之介の近況などもつぶさに報告した。話は尽きなかったが、やがて時の鐘が暮れ六つを知らせた。
「残念だが誠之進、そろそろ出かけねばならぬ」
「あいわかった。ではまたの機会に」
「うむ」
微笑み返す右近に、
「御免」
と一声かけ、誠之進は去っていった。
炭火で部屋もほどよく暖まり、今しばらく再会の余韻に浸りたいところだったが、
「さて…」
右近は誠之進を見送ると、火の始末をすませて外出の支度にかかった。
「今宵は気分がいい。留守居の先輩連中に鼓でも聞かせてやるか」
右近は早速謳いを口ずさみながら、肩衣(裃の上)を身につけ、足袋を履き替え、手際よく宴席へ向う身支度を整えた。
「市松、では行ってくる」
位牌に向って一声かけ、右近は晴れやかな瞳で長屋を後にした。
再会 了
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