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藩主交代に伴い惣一郎が中奥へと移り、代わりに信輝公が医師団とともに東御殿に入った。三郎はそのまま東御殿に残り、父君の側で暮らす。奥の女主人も牧の方から綾姫に変わった。だが牧の方は新藩主・惣一郎の生母でもあり、引き続き奥に留まりこれまで通りの生活を続けていた。新しく『御裏様』となった綾姫にとって、姑は目の上のたんこぶだろうが、息子の惣一郎はもちろん、誰も意見する者はいなかった。
大殿・信輝公はいましばらく静養が必要だったが、床払いした後は中屋敷か下屋敷に移るものと周囲は考えていた。牧の方もその時は大殿に付き従うつもりでいた。
過日、牧の方は国許から出てきた三郎信尭と初めて対面した。
死した後も信輝公の心に棲み続けた側室の『おひろ』。その忘れ形見は緊張に頬を強張らせながらも、澄んだ愛くるしい瞳で正室の自分に挨拶した。
(十六にしては童顔じゃの。養子にいっておれば、忠直殿(本田)がさぞやお気に召したろうに)
牧の方は穏やかに上座から礼に応えた。
(主膳や誠之進を始め、国許の重臣たちにさぞや大事にされてきたのであろう。汚れなど何も知らぬような顔をして一一)
牧の方は『遠路はるばる、殿のお見舞い御苦労であった』と、型通りの言葉をかけた。社交辞令として一応、道中の様子などを聞いてやる。言葉をかけてもらえ安堵したのか、三郎が薄いえくぼを浮かべて微笑み、国許から秋の信濃路、碓氷峠などの様子を楽しげに語り始めた。
息子の惣一郎がちらちらと気づかわしげな視線を投げてくる。それは母への気配りと同時に、異腹の弟へのいたわりであろう。惣一郎の三郎を見る目は限りなくやさしい。
(何と…早々に惣一郎を味方につけたか。守役だけでなく、実の兄まで手玉にとろうとは…)
牧の方は三郎の話に適当にうなずきながら、斜後ろに控える誠之進を扇の陰からちらりと見遣った。
(たいした若君じゃのう、誠之進。これもそなたの薫育の賜か…)
京・洛中の秋の風景を描いた屏風の前、牧の方はひたと三郎に視線をあてたまま、口元だけで薄く微笑んでいた。
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大坂にいった内藤帯刀からは一度文がきたが、当分江戸へ戻ってくる気配もない。帯刀からの高価な贈り物や遊山への同行は牧の方をおおいに慰めてくれたが一一。
(所詮、帯刀とのことは、寂しさを紛らわすいっときの戯れ…)
牧の方は人知れず溜息を洩らしていた。
秘密を知るのはお年寄の藤江と侍女の楓だけ。
帯刀が江戸を去った時点で、楓には暇を取らせた。『妙な噂が流れたときには、そなたの命はないものとおもえ』と因果を含めてあるゆえ、滅多なことを口走ったりはせぬだろう。
信輝公は正式に隠居し、遠からず藩邸を出ることになろう。正室の自分は大殿に付き従うまで。嫁いでから数十年、大名家のしきたりにのっとり奥と表に別れて暮らしてきたが一一。
(殿…)
もはや参勤交代もなく、信輝公はずっと江戸におられるだろう。牧の方は今度こそ夫婦水入らずで、殿様に尽そうと心を決めていた。隠居の身となれば、好きなだけ絵をお描きになるがよい。殿様の部屋に花をいけ、時には茶を点てたりしながら、ゆるりと過ごす日々もまた楽し一一。
ところが一一。
牧の方の思いとは裏腹に、大殿・信輝公はある日の午後、惣一郎、三郎、牧の方、綾姫ら身内を枕元に呼び、思いがけない決心を告げた。
信輝公が絹夜具の上に半身を起すと、側用人の青木がすかさず羽織を背中にきせかけた。
やがて信輝公はおもむろに口を開いた。
「惣一郎もめでたく将軍家にお目見えをはたし、晴れて高山藩主となった」
静かに首を垂れる惣一郎。
「もはや後顧の憂いはない。余は春になったら国許へ帰ろうとおもう」
(国許へ…かえる?)
鉄槌で殴られたがごとき衝撃が牧の方を襲った。
「父上!」
三郎が嬉々とした声をあげた。
「三郎、これからはずっとそなたの側で絵を描いて暮らそう…」
「まことにござりますか!」
「うむ。そのためにもまずは身体を治さねばならぬ」
「はいっ」
下座の三郎の声を遠いものに聞きながら、牧の方は向いに座る息子の惣一郎の顔を見た。
すでに納得していたのか、惣一郎の表情には驚きのかけらもなかった。母・牧の方と目が合うと、何やら苦しげに目を伏せた。
(なるほど…そなたは殿のお心、すでに存じておったのか)
頬を紅潮させ、朗らかな声を響かせていた三郎が、
「お方様!」
突然、牧の方に声をかけた。
「…なんじゃ」
牧の方は低く応じた。
指先の震えを隠すため、膝の上で固く両手を握りしめた。
「高山の冬は寒うござりますが、長く厳しい冬の後にやってくる、春の美しさは格別。夏はしのぎやすく、秋の燃えるような紅葉もそれは美しゅうござります。お方様も父上とともにぜひお越しくださりませ!」
「わらわが…越後へか?」
牧の方は鼻先で軽くわらった。
(田舎者めが…)
三郎の邪気のない笑顔が牧の方の胸をこれでもかと抉った。黒く禍々しい血が、どくどくと音をたてて身体中を駆け巡る。
ようやく信輝公が牧の方と目を合わせて言葉をかけた。
「牧。長年…わが正室としての勤め、御苦労であった」
「殿っ…」
静かに首肯する信輝公。
もはや心を決めた様子に、牧の方は返す言葉がない。
「江戸で生まれ育ったそなたには、越後は田舎で退屈じゃろう…」
「殿、わらわは…」
「無理に供をせずともよい。藩邸の敷地内に隠居所を作るもよし、中屋敷で暮らすもよし、そなたの好きなようにせい」
信輝公は自分にやわらかな笑みを向けていたが、もはやそこに心がないことを牧の方は看破していた。
(こののちは国許で、三郎の側で暮らすというのか。藩主の座をおりたら、正室のわらわは厄介払いか…。殿はそれほどにわらわが疎ましいのか?)
牧の方はなおも無言で信輝公を見つめた。
(正室のわらわに礼は尽しても、愛おしむ気持ちはかけらもないと一一)
「お方さま…?」
三郎が心配そうに牧の方の目の奥を覗き込む。
邪気のない仕種が、ことさら牧の方の苛立ちを煽った。
そして、父の心も、母の口惜しさも理解する惣一郎は、枕頭に端座したまま、いたたまれぬような瞳で目を伏せた。
(惣一郎…そなた、母の心を知りながら、それでも殿を止めてはくださらぬのか?)
なじるように息子を見つめても、惣一郎は伏目がちに押し黙ったままである。
(この筋書き…何もかもそなたは承知なのだな…)
夫も息子も、もはや己の意のままにはならぬ。それもこれも一一。
(三郎、そなたら親子のせいじゃ)
理不尽な怒りが三郎に向けられようとしていた。だが天下の御三卿の姫として、蝶よ花よと育てられた牧の方には、そもそも理不尽という概念が欠如している。無論、『御裏様』(正室)としての威厳を保つため、人前で決して見苦しい真似はせぬものの、心の奥底で荒れ狂う感情は押さえようもない。
齢五十に届こうという今でも、牧の方の本質は童女の頃と何らかわっていなかった。欲しいものは父や兄にねだって手にいれる。自分の意に従わぬものは、生き物でも人でも気の済むまで打ち据える。
牧の方はそんな己の醜さは自覚している。信輝公の前では上手に猫をかぶってきたつもりだった。
「牧…」
「は、はい」
突然夫に呼びかけられ、牧の方の声がうわずった。
信輝公は貌をあらため、牧の方に告げた。
「三郎は国許で分家させる。そなたも三郎の養子先については色々と心を砕いてくれたようだが…もはやその必要はない」
淡々と、しかし一切の反論を封じるよう口調だった。
牧の方は鉛を飲んだように押し黙った。
(もしや…殿はあのことを見破られたか?)
三郎と本田家の養子縁組。表向きは、駿河横河藩・五万石の跡継ぎとして迎える。一件良縁に見えるこの縁組の裏には、三郎を好色な舅・本田忠直にくれてやろうという、牧の方の暗い目論みがあった。
世間知らずで人の好い信輝公に、斯様な裏があるとは見抜けまいと、牧の方はたかをくくっていた。
「…承知いたしました」
牧の方は口惜しさに胸をたぎらせながらも、ただ静かにうなずくしかなかった。
つづく
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