二十九の巻
「夜叉」3




by 戸田采女

 雁が一羽、頭上を飛んでいった。

「お方さま、何やら時雨れてきそうでございます。ささ、中へお入りくださりませ」
お年寄の藤江が空を見上げてはしきりに促すが、牧の方は縁側に佇んだまま動こうとしない。
「お風邪を召されたらいかがいたします」
心配そうにまつわりつく藤江に、
「わらわのことはよい。そなた、寒いのなら中へ入るがよいぞ」
牧の方は抑揚のない声音で言った。
「そのようなことを申されましても…」
「藤江。しばらくひとりになりたいのじゃ。下がれ」
「お方さま…」
困り果てたように藤江は眉を下げた。
「…さがれ」
てこでも動かぬ口調で言い渡され、藤江は渋々ではあるが一旦引き下がった。

 高山藩邸・奥御殿。
先の藩主・因幡守信輝公の正室・牧の方と現藩主・惣一郎の室、綾姫を中心に、数多くの奥女中たちが暮らしている。庭園は女人の好みに合うようにと、四季を通じて季節の花が楽しめるような植裁だ。されどこの時期、菊の見頃もとうに終わり、椿や冬牡丹が咲き出すにはしばしの間がある。庭の気色は色彩に乏しく閑散としていた。

 牧の方は両手を擦りあわせつつ、庭師が残菊の始末をする様をぼんやりと眺めていた。

 時の鐘が未の下刻(午後三時)を知らせた。灰色の雲が重くたれ込め、藤江の言ったように今にも時雨れてきそうだった。庭師たちも早めに仕事を切り上げるつもりらしい。動きが慌ただしくなった。

 庭師たちが引き揚げ再び静寂が訪れたとき、縁側の板を下から軽く叩く音がした。牧の方は人さし指の関節で、軽くこんこんと柱を叩いて応じた。

『お召しとうかがいましたが…』
縁の下から男の囁きが聞こえた。
牧の方は声を潜め、床下に向って鋭く語りかけた。
「そなた、表(御殿)の様子も逐一探っておるのであろう?」
『はっ…一応は』
男は声に笑いを滲ませた。
「では殿が国許で隠居するという話、先刻承知か?」
『…はい』

 床下でうなずく気配を受け、牧の方は目を閉じて深く息をついた。
「そなた、わらわの手足となって働くよう、帯刀から言い付かってきたと申したな」
『仰せの通りにござります』
牧の方は迷いを振り切るがごとく、かっと目を見開いた。
「ならば何とかしてたもれ」
『……』
「殿を…国許へなぞ行かせてはならぬ」 
『お方様のお気持ち…お察し申し上げまする』
「わかっておるなら、何とかせよ」
『そう申されましても…それがしごとき下忍に何ができましょうや。江戸にお留まりいただくよう、殿を説得するなら惣一郎様あたりに一一』
皆まで言わせず、牧の方は遮った。
「…いかような手段でも構わぬ」
ほう、と縁の下で男の溜息が鈍く漂った。
『手段を選ばぬと、そう申されるのですか?』 
「そうじゃ」
『殿に、二度と国許の土を踏ませるな…そういうことにござりますか?』

 牧の方は息を詰めた。胸の動悸が異様なまでに高まっていた。

(最後までわらわをないがしろにし、国許で三郎と暮らそうとは…あまりな仕打ちじゃ)

 この者をけしかければ、よもやし損じることはあるまい。

 よいのか…これで。

 牧の方は再度自問した。

 まことに、それでよいのか。

「殿には…。何としてでも江戸に…お留まりいただくのじゃ」
牧の方は震える声で告げた。




 若き日、神社参詣の折りに出会った大名家の子息とおぼしき若者。貴公子然とした面だちと洗練された所作に、牧の方はひと目で恋に落ちた。屋敷に戻った後すぐに家臣に調べさせ、件の若者が高山藩結城家の世嗣・信輝とわかった。未だ信輝に正室がないことを知り、日に日に想いを募らせた牧は、兄の田安慶久に頼み込んで、両家の縁談をまとめてもらった。御三卿の田安家から是非にと言われれば、結城家に断れる道理もない。加えて牧は自分の美しさに自信があった。

 物静かな性格の信輝公との間に、若干の温度差はあったが、それでも夫婦は礼節を保ちつつも睦まじく、ふたりの男子までなした。信輝公は世継ぎの誕生を大層よろこび、嫡子・惣一郎と次男の犬千代を慈しんだ。

 やがて信輝公が藩主となり参勤交代が始まる。江戸屋敷でも奥と表に別れた生活だ。大名家の習いとはいえ、夫婦の距離が一層離れたように思えた。『御国御前』(国許の側室)でもできたかと疑ったが、城にそのような女子はおらぬという。

 だが既にその頃、関川宿の本陣『加賀屋』の娘が信輝公にみそめられ、情けを受ける身となっていた。

 二年後、本陣の娘、おひろは三郎を生み、高山城へ迎えられた。

 国許に放った手の者よりその知らせを聞いた日から一一。

 牧の心には鬼が棲みついた。




  『後悔…なさいませぬな』

 床下から尋ねる男の声は、邪悪な誘惑に満ちていた。板一枚隔てた上で、牧の方は膝の上の両手を握りしめ、ゆっくりと首肯した。

 雨音が静かに庭土を叩き始めた。


つづく


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背景は「薫風館」さんからお借りしています。


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