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強心剤・『狐の手袋』は強い毒性を持ち、多量に服用すれば激しい嘔吐を起し心停止にいたる。十月十六日に信輝公が二度目の発作を起して以来、医師の日向道伯は慎重に投与量を加減し、信輝公の治療にあたってきた。薬の調合も助手に任せず、必ず自らが行ってきた。
信輝公の病状は安定し、順調に回復の兆しを見せていた。
その安心が気の緩みを生んだのか。
十一月七日の夜、高山藩邸に『駆け込み人』があった。朋輩と斬り合い深手を追った侍は、尾張徳川家・江戸屋敷の家臣と名乗った。当時、藩邸に助けを求めてやってくる『駆け込み人』を囲わない(保護しない)のは、武士の恥じであるという倫理観があった。そのうえ御三家の家臣とあらば、仔細はわからねど、とりあえず鄭重に扱わねばなるまい。急遽、藩医師の日向道伯が呼ばれ治療にあたった。
道伯は信頼のおける一番弟子に信輝公の薬の割合を伝え、一時、信輝公の側を離れたのだった。
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「青木様っ、大殿が!!」
夜半、信輝公付きの小姓のひとりが、蒼白になって側用人の青木忠佐衛門の部屋へ駆け込んだ。
「何事ぞっ!」
けたたましい声に、仮眠をとっていた青木も夜着をはねのけて起き上がった。
「は、はよう御前にいらしてくださりませ! 大殿が、先程から激しく胃の中のものを戻されっ…」
「すぐ参る! そなたは急ぎ堀田様と武村様に知らせよ!」
「はいっ!」
慌ただしく飛び出して行く小姓の後を追い、青木も急ぎ信輝公の寝所へ向った。何かあった時のためにと、もともと寝間着には着替えていない。
「大殿っ!」
青木が駆け付けた時、信輝公はうつ伏せに夜具の上に突っ伏し、すでに虫の息だった。
枕の周辺は嘔吐物でおびただしく汚れていた。
「殿っ…」
青木は着物が汚れるのも構わずかたわらに跪き、信輝公の上半身を抱き起こした。
「…忠佐っ」
信輝公はようやく絞り出すように青木の名を呼んだが、もはや目に力はない。
「道伯殿をはようこれへっ!!」
青木の絶叫が室内に響いたが、当番の小姓も宿直の若い助手も腰を抜かして震えるばかりで、その場から動けない。
「と、殿ぉ…っ」
信輝公の瞳から光りが消え、身体が萎えていく様を、青木は五感で感じていた。
もはやこの場を離れてはならぬと、諦観の中で悟った。
青木は懐から懐紙を取り出すと、信輝公の口元を丁寧にぬぐって浄めた。
命の火が消える最後の瞬間まで、お身体を離すまいと両腕に力を込める。
「殿っ…」
信輝公の唇が微かに動いた。
「殿?!」
「…さ、三郎っ」
掠れる声でひとこと呟き、信輝公の四肢から力が抜けた。旅立ってしまった信輝公の身体の重みが、青木の
腕に悲しくのしかかる。
その瞬間、側用人・青木忠佐衛門の時は止まった。
小姓時代から数えて、四十幾年。
あまりにも唐突な主君との別れであった。
*
青木に遅れること数分、江戸家老の武村権六や留守居役・堀田又左衛門、そして右近が駆け付けたとき、信輝公はすでに不帰の人となっていた。寝具の汚れ具合から、激しい嘔吐から心停止に至った様子が知れる。とても斯様なお姿をお身内には見せられぬと、右近は唇を震わせながらも小姓たちに指示を出し、信輝公の寝間着を替え、新しい夜具の上に遺体を安置した。
全てが整えられたのち、惣一郎と三郎、牧の方へ、信輝公の死が伝えられた。
三者三様の悲しみの対面であった。
信輝公の枕頭に座し、悔しげに唇を噛みしめながら、涙で頬を濡らす惣一郎。
その下座で掛け布団にとりすがって泣く三郎。
惣一郎の向いには信輝公正室・牧の方が、時折嗚咽を洩らしながらも、毅然と端座していた。
ご容態は日々快方に向っていた矢先のこと。お身内はもとより、家臣の衝撃もはかりしれない。
三郎に付き従ってきた誠之進は次の間に控えていた。御寝所の末席に控える右近は、肩越しに友の様子をうかがっていた。誠之進は全身を強張らせ、食い入るように信輝公の亡骸を見つめている。悲しみよりもまず、信輝公の死に納得がいかぬ様子が見てとれた。
『殿! なにゆえです?! なにゆえ三郎ぎみを置いて突然逝ってしまわれたのか一一』
右近には誠之進の叫びが聞こえるような気がした。
*
信輝公最後のご様子から、致死量を上回る『狐の手袋』が投与されたことは明らかだった。御医師・日向道伯は弟子の不手際と己の落ち度を詫びる書き付けを残し、その夜のうちに毒をあおって自害した。
『狐の手袋』の使用につき、医師に言質を与えた堀田も責任を感じて殉死をはかった。
「堀田様!」
「爺!追い腹はまかりならぬぞっ!」
明け方近く堀田が御寝所から去ったのち、よもやと思って役宅へ駆け付けた右近と惣一郎が、寸でのところで堀田を阻止した。
「若っ…どうせ老い先短い命じゃ。殿のお供をさせてくだされっ…」
「ばかもの! そちは九十過ぎまでも世にはばかり、我らに小言を言うのが勤めぞ!」
「若…後生でござるっ…」
「ならぬ!」
惣一郎が後ろから堀田を羽交い締めにし、右近が堀田の手から脇差をもぎ取った。
「とのぉ…っ」
堀田は痛恨の叫びとともに、がっくりと畳に両手をついた。
つづく
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