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その夜、重臣達は母屋の客間で、信輝公と三郎は離れで休むことになった。ふたりは親子だが、父・信輝公は本丸、三郎は西の丸と、普段は別の館で暮らしている。ましてや枕を並べて休むなど、思えばこれがはじめてのことだった。三郎は戸惑いながらも、昔、父が参勤交代の際、母の実家、関川宿の本陣・加賀屋に泊まったことを懐かしく思い出した。当時はまだ親子の名乗りをあげていなかったが、父は秘かに自分を部屋に呼び、遊んでくれたり菓子をくれたりしたものだ。理由はわからねど、年に一回は必ず加賀屋を訪なう『お殿様』を、三郎は心待ちにしていた。
近待に手伝わせて寝間着に着替えると、信輝公は人払いした。
三郎は絹夜具の上に正座し、父の言葉を待った。
薄々予感はあったのだ。今夜、件の養子縁組について、必ずや父から話しがある。おそらくは、主膳も承知の上、このような場を用意したのではないか。
弥生の初め、雪どけを待ちかねたように江戸から使者が来た。留守居役添役と名乗った。本丸の小書院で、主膳も同席するなか、使者は父と三郎にさる藩との養子縁組の話を打診した。誰に口止めされたわけではなかったが、三郎はこの話を誠之進にはしていない。使者が来た時、誠之進は領内の視察に出かけていて留守だった。
養子先は駿河の横川藩、本田家、五万石。昨年、世嗣が流行り病で亡くなった。藩主はすでに還暦を過ぎ、もはや、和子のできる可能性はほとんどない。あとは側室が生んだ十歳の姫がひとりいるだけで、姫に養子を迎えねば本田家は無嗣絶家になるという。
五万石といえば、高山藩に比べて表高は低いが、藩は温暖な気候に恵まれ、内高(大名の実収高)は七万を超えると噂されている。
分家して高山に残りたいという、三郎の願いに一応の理解を示しながらも、信輝公はこの縁組、なかなかに恵まれた話ではと心動かされた様子だった。
話を聞かされた時、三郎はすぐにも誠之進に伝えねばと思った。
だが、春になってから誠之進は多忙を極め、視察に出たまま何日も戻ってこない。その間、三郎は三郎なりに考えを巡らせたのだ。
誠之進は昨年から、三郎の分家を実現させるべく、父・信輝公はもちろん、重臣の一部にも働きかけている。だが、現在にいたるまで、父から色好い返事はもらえていない。おそらくは、自分のはかり知れない、様々な事情が絡み合い、事を難しくしているのかもしれぬ。
『若の幸せは…私がお守りします』
誠之進は事ある毎に、三郎を抱きしめ、そう繰り返してきた。誠之進の真心を一瞬たりとも疑ったことはないが、三郎の心には小さな不安が芽生え始めていた。
三郎にとっては父とも兄とも頼む守役だが、城中ではまだまだ弱輩だ。筆頭家老でもある父親に逆らい、藩主に意見し、己が思うままに事を運ぶことなどできるのだろうか?
三郎とてもはや子供ではない。城中での序列、力関係はほぼ把握している。内藤帯刀が失脚したことで、今や主膳の力は絶大だ。主膳を説き伏せられねば、他の中老を何人味方につけたところで、戦の趨勢は決している…。
自分のせいで、近頃、誠之進とその父である溝口主膳の間がぎくしゃくしている。三郎はそれを敏感に感じ取り、秘かに心を痛めていた。
誠之進にこれ以上無理をさせるより、むしろ、三郎自身が父に捨て身でぶつかり、分家を願い出てみてはどうだろう…。
三郎はあえてこの話、誠之進の耳には入れず、父に直談判する機会を伺っていた。
「三郎…」
暖かい声音で名を呼ばれ、三郎は我にかえった。
行灯の火影を挟み、藩主親子は夜具の上に端座して向き合った。
「今宵はそなたと水入らずで、心ゆくまで語りあいたいとおもう…」
「父上…」
「わかっておろうな…養子の件じゃ」
「はい…」
三郎は丹田に力を入れて、深く息を吸った。
「三郎、本田家への養子の儀、如何おもう?」
三郎は慎重に言葉を選んで口を開いた。
「私のような者には身に余るお話と存じますが…」
信輝公が大きくうなずいた。
「父上…このようなこと、申し上げるのは誠に心苦しいのですが…」
「三郎、今宵はそなたと身供、ふたりきり…思うところを正直に申してみよ。そのための、主膳のはからいじゃ」
三郎は父をひたと見つめ、
「では…申し上げます」
「うむ…」
「父上、私は…やはり大名にはなれませぬ」
「三郎…前にもそのようなことを申したな…」
三郎はこくりと頷き、
「…大名どころか、侍にもなりきれぬのです」
「何を申す? そなたは身供の血をわけた、紛れもない高山藩十一万石、結城家の息子じゃ!」
「なれど!」
三郎は思わず身を乗り出して言いつのった。
「私は…、九つまで加賀屋で育ちました。町人の子として…自分が武家の子などとは夢にも思わぬまま…」
「三郎…そなた、身供を恨んでおるのか…」
三郎は大きく首を左右に振った。
「そのようなことは決して。母亡きあと、父上が私をお城に呼んでくださったこと、心から感謝しております」
そうだ。父が呼び寄せてくれねば、自分が誠之進に出会うことはなかった…。
「三郎、そなた…」
「お城での暮らしは楽しゅうござります。誠之進はもちろん、お福や源蔵、小兵太に倫太郎、それはよう仕えてくれました。私にとっては今や家族同然にござりまする…」
信輝公は瞳を潤ませて大きくうなずいた。
三郎の母、おひろは関川宿の本陣の娘だった。参勤交代のおり、信輝公が見初めて情けをかけた。おひろが身ごもったとわかった時、側室として正式に城に迎え、おひろは見事男児を出産した。それが江戸の正室・お牧の方の恨みを買い、三郎を出産後、おひろは何者かに毒を盛られた。幸い発見が早かったため大事にはいたらなかったが、いずれ三郎にも悪意の手が伸びるのではないかと、おひろは酷く怯えていた。
おひろを手放すのは本意ではなかったが、これ以上城に置いておくのが危険と判断し、信輝公は泣く泣くおひろと三郎を実家の加賀屋へ返したのだった。
「されど父上…私はやはり、大名になどなれませぬ。兄上には御迷惑かもしれませぬが、私はこのまま、高山で暮らしとうござります」
「三郎…」
「分家などけしからぬとおっしゃなら、部屋住みのままでも結構。…もしくは、臣下にくだっても構いませぬ」
「そなた正気か…本田家に養子にいけば、五万石の藩主なのだぞ。しかも先方から是非にと言ってきておる。それを蹴ってまで、部屋住みでよい、ましてや臣下に下るなどとは…何ゆえじゃ? 身供にはわからぬ…」
「父上…お願いにござりまする!」
「三郎…」
「どうか、私をこのまま、御領内においてくださりませ」
「三郎!」
「どこへも行きとうはありませぬ!」
ほとんど涙声で訴える三郎を前に、信輝公はひたすら困惑していた。
信輝公はいつぞや、『大名の暮らしなどつまらぬものよな…』と三郎と誠之進に洩らした。しかし、所詮、信輝公は生まれながらの殿様なのだ。口では『つまらない』と言いながらも、大名の暮らし、他人にかしずかれる暮らしを当然のものと考えている。
領地や地位などいらぬという、半分町人の三郎の発想が、何度話し合っても理解できないのだろう。
夜具の上に端座して向き合ったまま、ふたりは押し黙ってしまった。
夜が更けて、少し風が出てきたらしい。庭先の柳がざわざわと音をたててゆれていた。しばらくはふたりとも、風の音にじっと耳を傾けていたが、ややあって、三郎が意を決したように面をあげた。
「父上…」
「何じゃ」
「もし…どうしても領内にとどまること、お許しいただけぬのなら…一つだけお願いがござります」
「…申してみよ」
「…誠之進を、供につけてくださりませ」
「何じゃと?」
瞠目し、低い声音で問い返す父を、三郎はひたと見つめた。いつも助けてくれる誠之進は、この場にはいない。膝の上の拳を握りしめ、三郎はひとり不安に耐えた。
「父上…、父上がどうしても養子にいけとおっしゃるなら、この三郎、従いまする。なれど…」
「三郎?!」
「どうか、誠之進は私と供に…っ」
「三郎…」
「お願いにござりますっ…誠之進と一緒なら、どんな遠くへも参りますゆえ…」
必死に訴えれば父上は聞きとどけてくれるだろうか? 三郎はすがるような瞳で信輝公を見つめ続けた。
信輝公は驚きに目を見張ったまま、しばし言葉を失っていた。
やがて、
「三郎…守役の勤めはそなたの元服までじゃ。斯様なこと、承知していたであろう?」
苦し気な吐息ともに、三郎を諭した。
「な、なれど!」
父の瞳がくもる。
「…そなたが元服した後、誠之進を筆頭家老に任ずるつもりじゃ」
「父上…っ」
「主膳は今年にも隠居したがったが…それは身供が引き止めた。元服までは誠之進とともにありたいという、そなたの願いを聞き入れたつもりじゃ」
「ち、父上!」
「されど」
「あ…」
「それ以上のわがままは許さぬ」
万力できりきりと締め付けられたかのように、三郎は胸が潰れそうになった。
『わがままは許さぬ』
父の言葉が頭の中で割れ鐘のように鳴った。
「三郎…他の者なら、誰でもそなたの気に入った者を連れていくがよい。お福や源蔵、ほれ、あの馬廻りの吉田小兵太でも構わぬ」
「父上!」
三郎は必死にかぶりを振った。
「それで足らぬなら、藩校の学友も何人か連れてゆくがよい。なれど…」
(父上、違うのです。他の者などいりませぬ。 私は…私は、誠之進と引き離されたら…生きてはいけませぬ!)
三郎は総身を石のようにこわばらせ、奥歯をかみしめていた。両の目に涙が溢れそうになる。
「かわいそうだが、誠之進だけは…供につけてやるわけにはいかぬ。誠之進は、主膳が隠居した後、藩政の舵取りをすべき男なのだ…いつまでも、そなたのお守をしているわけにはいくまい…」
三郎の耳にはもはや父の言葉は聞こえていなかった。
「…三郎、養子か分家か、この父も今いちど思案してみるが…いずれにせよ、そなたももう子供ではないのだ。誠之進を供につけてほしいなどと、甘えたことを言ってはならぬ」
「父上…」
目の前が、墨を流したように真っ暗になった。
(ならば死んでも養子になど行きませぬ!)
三郎は喉まででかかった叫びを、懸命に封じ込めた。とうとう堪えきれずに涙が両頬を伝う。
信輝公は三郎の泣き顔から目を逸らすように俯くと、
「今宵はもう休むとよい」
静かな、哀れむような声音で言った。
抗いがたい大きな力が、自分と誠之進を引き裂こうとしている。迫りくる現実を前に、三郎は暗澹たる思いで目を伏せた。
桜狩 了
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