|
*「下弦の月」未読の方は、登場人物で内藤一族をチェックしていただいても…(ぺこり)
「ほお…聞きしに勝る賑わいじゃのう…」
船の舳先に立ち駘蕩たる風に吹かれながら、内藤嶺次郎は思わず唸った。
江戸には何度も足を運んだ嶺次郎も、海路、大坂に入るのはこれが初めてである。
「どうじゃ、弥一郎、今町とは比べ物にならぬだろう?」
弥一郎と呼ばれた若者は、目の前の壮観な光景に言葉を失い、ただただ目をみはった。
難波津の湊には諸国から集まった藩船や商船の帆柱が林立していた。菱垣廻船、樽廻船、千石船など船の形も大きさもさまざまである。岸壁には白壁に黒い屋根瓦の諸藩の蔵屋敷が立ち並ぶ。無数の艀が船と桟橋の間を行き来しており、岸でうごめく人足の数も半端ではない。『出船千艘、入船千艘』とはよくいったものである。
北国生まれの十八歳の内藤弥一郎にとって、大坂の町は恐ろしいほどの活気に満ちていた。
木の香りも新しい島崎屋の八百石船、宝栄丸は波をきって湊へとつき進む。
島崎屋は今町湊を拠点とした北前問屋で、所有する千石船二隻は高山藩の藩船でもある。
「よう見ておけ、弥一郎。これが天下の台所、大坂の町じゃ」
弥一郎の背後から野太いがした。
「父上…」
八代将軍・吉宗と張り合った、尾張宗春公も顔負けなほど派手な着物に身を包み、浅黒い肌に光る眼光。太平の世にはおよそ似つかわしくない、戦国武将のごとく覇気溢れる男が、帆柱の横で仁王立ちになっていた。
*
内藤帯刀。昨年秋、永年にわたる藩金流用が発覚し、次席家老を罷免になった男である。様々な周囲の思惑もからんで切腹だけは免れたが、明和四年九月二十一日に閉門百日の沙汰が下った。百日が過ぎた後も、帯刀は周囲が無気味に思うほど大人しく謹慎していた。
その帯刀が動いた。春を待ちかねたように、如月の半ば、弟・嶺次郎、嫡男・弥一郎を連れ、島崎屋の西廻り航路の船に便乗して一路大坂を目指した。島崎屋は数年前から次席家老・内藤帯刀の後援を受け、しがない味噌問屋から今町一の海商にのしあがった。稀に見る胆力と商才の持ち主であることは否めないが、老舗の中村屋をもしのぐ北前問屋に、たかだか六、七年で成長した裏には、当然秘密があった。島崎屋をみこんだ帯刀が、身内の勘定奉行を通して藩庫の金を独断で流用し、島崎屋に貸し与えたのだった。これを元手に島崎屋は千石船を建造し、一気に商いの手を広げた。
内藤帯刀の藩金流用が発覚し失脚した後も、島崎屋はさしたる咎めも受けずに商いを続けている。昨年の飢饉騒ぎのおり、莫大な御用金と献上米を納め、今や『金の卵を生む鶏』となった島崎屋を、藩が処分することなどできなかった。破格の御用金と引き換えに、晴れて永代渡免許まで手にした島崎屋宗七は、十月には高山藩の藩船となった千石船で出航し、大坂で年を越していた。今回帯刀は大坂で島崎屋宗七と合流するつもりである。
帯刀の嫡男・弥一郎は父が次席家老を罷免されたのち、今年早々にも家督し、帯刀の後を襲うよう、筆頭家老・溝口主膳から言い渡されていた。信輝公からも『格別の慈悲をもって連座の罪は問わず』とのお沙汰であったが、父が罷免になった直後に後釜に座れるほど、弥一郎は厚顔ではなかった。
『十八歳の自分が御用部屋の一員になったところで何程のお役にもたてませぬ』と、弥一郎はまだ若年であることを理由に猶予を願いでたのだ。
父・帯刀が罷免になったことで、弥一郎は藩校へ顔出しできなくなった。まだまだ学びたいことは多く、会いたい友もいる。弥一郎にとってこれが何より辛かった。
父や叔父との折り合いも、必ずしも良いわけでもない。父・帯刀は次席家老の地位に飽き足らず、筆頭家老への野心むき出しの俗物。部屋住みの叔父・嶺次郎はほとんど痴れ者と言っていいほどの好色なろくでなし。弥一郎の父と叔父に対する評価はこんなところだ。
ふたりと行動を共にするのは本意ではなかったが、弥一郎は国許を離れた後、江戸や長崎で学問を納めたいと考えている。大きな声では語れぬが、弥一郎は蘭学を志している。そのための手段として、渋々ふたりとともに大坂行きの船にのった。
紗のかかったような青空に、波穏やかで明るい瀬戸内海の海。岸を彩る菜の花は、弥一郎に秘かな想い人の笑顔を想起させた。
***
湊で島崎屋・大坂店の番頭の出迎えをうけ、内藤帯刀一行は島崎屋と懇意な大坂商人・枡屋伝兵衛の寮に落ち着くこととなった。桝屋の寮は大坂城や天満宮にもほど近く、閑静なたたずまいが弥一郎の好みにあった。
現在無役の身であるにもかかわらず、父・帯刀は勢力的に大坂商人に会い、どうやら高山藩の大坂蔵屋敷の土地探しをしているらしい。堂島四丁目、肥前大村丹後守の蔵屋敷近くに格好の空き地を見つけたと、ある日勢いこんで弥一郎に語った。
家老を罷免になったくせに、何を今さら? と弥一郎は首をかしげたが、父の行動の裏には御用部屋に返り咲いてやるという、強い意志が感じられた。おそらくはそのために、また汚い手を使うのだろう…。
反りが合わぬとはいえ、弥一郎とて父に敵対するのは本意ではない。しかし、父の野望がいとしい『彼の人』に仇なすものであれば、断じて看過すまいと心に決めている。
*
「叔父上、しつこいですぞ。先程から何度も申し上げているでしょう!」
語気を強めて睨みあげても、痴れ者の叔父は意に介した様子もない。
「やいちろう!」
嶺次郎は芝居がかった溜息をつくと、しなをつくらんばかりに言った。
「そないな堅物では、将来、立派に家老職をつとめることなぞ出来しまへんで。あんさんも少しは世の中っちゅうもんを知らなあきまへん」
「…叔父上、半端な上方訛りはおやめなさい。気色の悪い…」
この叔父はどこまで阿呆になったら気がすむのか、と弥一郎はちいさく首を振った。
嶺次郎は一応、真顔に戻ると、
「ともかく。兄上に言われておるのだ。今夜は是が非でも弥一郎を引っ張って参れ、とな」
「何ゆえ私まで商人の宴席に出ねばなりませぬ?」
「顔をつないでおいて損はなかろう? そなたこそ何ゆえ頑なに拒む?」
弥一郎は口ごもった。
さしたる理由はない。綺麗どころを侍らせて、飲めや歌えの宴会だ。適当に付き合ってすませればよいのだろうが、今は斯様な場所に出向く気になれない。それだけだ。
「弥一郎。言っておくがな、そなた、だれのお陰で大坂まで旅をし、この寮でのんびり書など読んでおられると思う?」
痛いところを突かれた。
唇をかむ弥一郎に、
「たまには兄上や島崎屋の顔をたてろ」
嶺次郎は鋭く言い捨てた。
悔しいが叔父の言うことにも一理あった。
「…仕方ありませぬ。今回だけですぞ」
弥一郎は諦め切った表情で溜息をついた。
*
暮れ六ッ。駕篭で新町の一角、九軒町の茶屋「玉乃屋」へのりつけた。路地には客を迎える灯りがともり、三弦の音や人々のさんざめきがあちこちから洩れ聞こえてくる。
「おい、こっちだ」
嶺次郎に促され中へ入ると、女将がじきじきに出迎えた。
「内藤様の若様、今宵はほんにようお越しくださいました」
艶やかな笑みを向ける女将に、弥一郎は固い表情でちいさくうなずく。
「お腰のものを…お預かりいたします」
もの柔らかい調子でいわれたとき、弥一郎は一瞬相手の顔をまじまじと見返した。茶屋に揚るときはそういうきまりだと、聞いたことはあったが、身体がすぐに反応しなかった。弥一郎は慌てて差料をはずして女将に手渡した。
憎らしいことに、隣では嶺次郎が余裕の笑みを浮かべている。
「甥はまだ世間知らずでな。こういう場所には慣れておらぬのだ…」
「そうどすか…初々しくてよろしゅおすなあ…」(なんか京都弁もどきになってますね…許して!)
芙蓉のごとき唇を綻ばせる女将の耳もとへ、嶺次郎が何かささやいた。
女将は心得たとばかりにちいさくうなずき、二人分の刀を抱えて帳場へ戻っていった。
茶屋の女中に案内されて通った座敷きには、あかあかと燭台がともり、芸者が数人、三味線、男芸者(たいこもち)が顔を揃えていた。父・帯刀と桝屋伝兵衛、あと二人、還暦前後のいかにもお大尽という風貌の男と、父よりいくらか若い精悍な顔つきの町人が、酒杯片手に上機嫌で盛り上がっていた。
「兄上、弥一郎を連れて参りましたぞ」
「おお、嶺次郎、でかしたぞ。ほれ、ふたりとも早うこちらへ参れ」
帯刀は満面の笑みで弟と息子に手招きした。
野心家で政敵には容赦のない男だが、内藤帯刀の弟びいき、息子自慢は家中でも有名だった。大坂でも存分に披露するつもりらしい。
「若様、今宵はようお運びくださりました」
桝屋は人の良い笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げた。弥一郎も軽くうなずいて応えた。
今回、世話になっている桝屋伝兵衛は、かの鴻池、両替商の天満屋に続く豪商のひとりである。長崎との交易を主にてがけているという。いかなる縁で、いわば成り上がりの島崎屋と懇意になったかは知らない。だが、桝屋は温和らしい福相をそなえた老人で、弥一郎のような若造にも腰の低い態度で接した。それは逆に、功なり名をなした商人の余裕ともとれる。
上等の絹物を身に付けたお大尽は、天満屋作右衛門と名乗った。両替商・天満屋のご隠居らしい。
対する島崎屋はまだ四十前の働き盛り。引き締まった体躯に日焼けした相貌は、算盤をはじいている商人というより、まさに海の男を感じさせる。
島崎屋主人・宗七と内藤家は縁浅からぬ間柄だが、弥一郎は初対面であった。
「弥一郎、島崎屋宗七じゃ」
帯刀に紹介され、島崎屋は弥一郎に向かって深々と一礼した。
「弥一郎様、お初にお目にかかります。手前が島崎屋宗七にございます」
「うむ…」
弥一郎は軽くうなずき返しながら、目の前の男に父と同じ臭いを嗅ぎとっていた。
(こやつが父上と結託し、藩の金を使ってまんまと千石船を手に入れた男か…)
弥一郎は複雑な感慨とともに、島崎屋宗七の顔をしかと頭に刻み込んだ。
「父上様には平素より格別のお引き立てを賜り…」
(そなたを引き立てた挙句、父上は家老を罷免になったのだが…?)
「かねてからの御恩に報いるべく、われわれも全力をあげて…」
(…ぺらぺらとよくしゃべる男だ)
「…以後どうぞお見知りおきを」
弥一郎は島崎屋の言葉を半分も聞いていなかった。
*
挨拶が済んだのを見計らって、枡屋が芸者に目で合図すると、年嵩の芸者が三味線を鳴らしだし、つややかな唄声が加わった。目を細めて若い芸者の舞い姿にみとれる父・帯刀。
心を和ませる情趣に、衆道まっしぐらの嶺次郎でさえ、うっとりと聞き入っている。
艶やかな舞は美しいと思う。賑やかな大坂の町には心ひかれる物もある。芝居や遊興が楽しめぬほどの堅物でもない。しかし心がわきたつほどの気分になれぬのは何故だろう。自分にはこの父や叔父と同じ、享楽的な血が流れていないのか?
それで結構と思う気持と、一抹の寂しさと…。父・帯刀と嶺次郎を軽蔑しながらも、身内としての情を捨てきれないやるせなさがあった。
*
しばらくして、もうひとり客人が現れた。身なりや態度からして、かなり高格の武士のようだ。どこかの蔵屋敷の留守居か何かだろうか?
間合いをはかったように、嶺次郎が弥一郎を連れて辞去しようとする。
「では、皆様方、我ら弱輩はこれにて失礼おば…」
嶺次郎は父・帯刀に目配せし、父も了解したかのようにうなずいた。
「…あまり、お過ごしめされますな」
島崎屋が口元に好色な笑いを浮かべて、言い添えた。
訝し気に見上げる弥一郎の肘をとり、嶺次郎はあたりに愛想笑いを振りまいて座敷を後にした。
つづく
|