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叔父・嶺次郎に半ば無理矢理駕篭に押し込まれ、弥一郎は九軒町の茶屋をあとにした。天満にある桝屋の寮に帰るかと思いきや、駕篭はいくらもたたぬうちに次の目的地へついた。
駕篭を降り立った弥一郎は、
「叔父上…ここは?」
いかに初心な弥一郎でも、先程の九軒町とは空気が違うことに気付いた。赤い格子に艶かしい暖簾。
「いいからついて参れ」
嶺次郎は自信たっぷりにうなずくと、通りの中でもおそらくは最高級の見世に弥一郎をいざなった。
「玉乃屋の女将から話がいっていると思うが…」
「お待ちしておりました。内海様の若様でございますね…」
もみ手をしながら出迎える主人に、嶺次郎が目配せしている。
「叔父上…内海様とは?」
小声で尋ねる弥一郎に、
「ばかもの、こんなところで真の名を名乗る奴がいるか!」
さらに小声で嶺次郎が鋭く言った。
「兄上のお計らいじゃ。筆おろしをしてくれる太夫をみつくろってある。そなたも見事一人前になってこい」
「そ、そのようなこと…」
弥一郎は耳まで紅に染めて叫んだ。
「頼んだ覚えはござりませぬ!」
嶺次郎は弥一郎の袖をひっぱって隅のほうへいくと、
「弥一郎! 店先で押し問答なぞ野暮の極みだぞっ。大人しく揚ってこい!」
(大きなお世話じゃ!)
怒り心頭にたっした弥一郎は叔父の手を振りきり、
「斯様なことで叔父上の指図はうけませぬ。御免!」
言い捨てるなり、身を翻して外に出ていった。
*
まだ月代の剃り跡も青い、十八歳。
切ない恋ごころを寄せる相手は、恐れおおくも殿の御子。文を送ったり、手拭いを換えてくれと申し込める相手ではない。
されど藩校に通ってくる三郎とは毎日のように会えた。三郎の学ぶ真剣な横顔、弥一郎に時々教えを乞う、まっすぐで汚れのない瞳を見ているだけで幸せだった。
それに…三郎にはすでに想い人がいる。相愛のふたりの絆は強く、決して自分のものになどならない。
ただ一度だけ、気を失って倒れた三郎の唇に触れた。その甘い柔らかさが忘れられなかった。
今の弥一郎にとって、たとえ新町一の太夫であろうと、売り物の女人と肌身をあわせるなど考えられぬ話であった。
*
「待たぬか、弥一郎!」
慌てて嶺次郎も通りに飛び出した。
振り返りもせず歩み去ろうとする弥一郎に、嶺次郎が再び怒鳴り付けた。
「このまま帰るわけにはいかぬだろう? 揚屋に詫びを入れてくるから、ちょっとそこで待っておれ、よいな!」
飛び出したところで正直西も東もわからない。弥一郎は渋々その場で叔父を待った。
おそらく、父・帯刀の顔も、玉乃屋という先程の茶屋の女将の顔もつぶしたのだろう。嶺次郎がどう言い繕ったか知らぬが、弥一郎は父のお節介を恨みこそすれ、己が悪いなどとは微塵も思っていない。
ほどなく叔父の嶺次郎が小さく首を振りながら、再び暖簾をくぐって出てきた。
「兄上にはこの不始末、自分で言い訳しろよ」
「大きなお世話にござります」
「…ったく、かわいげのない。ああ、もう、駕篭を呼んでやるから独りで帰れ!」
「叔父上は…?」
思わず口をついた素朴な疑問だった。
嶺次郎はにやりと片頬で笑い、
「儂はあっちの『子ども屋』に寄る」
一筋向こうの通りを指差し、嶺次郎は悪びれもせずに言った。
「子ども屋…?」
「なんじゃ、そんな言葉も知らぬのか。蔭間茶屋のことじゃ」
「…お、叔父上」
この叔父が女郎を買いにいくわけがなかった。聞いた自分が愚かであった。
「ほれ、駕篭を呼んでやるゆえ…」
通りに目を凝らして、嶺次郎は空いた駕篭を探している。
だが次の瞬間、弥一郎はもっと愚かなひとことを放っていた。
「わ、私も参ります」
「は?」
嶺次郎は目の玉がこぼれんばかりに弥一郎を見返した。
「…つ、ついでです。どのような処か、一目見ていきます」
「はあ…それは構わぬが…」
「いざ、参りましょう…案内してくださりませ」
「う、うむ」
意外な展開に、嶺次郎はすっかり毒気を抜かれた様子だ。首をかしげながらも弥一郎の同行を拒みはしなかった。
大坂へ着いて一週間になるが、すでにこの界隈、嶺次郎にとっては勝手知ったる何とやら…。迷いもせずに目指す見世に向かうと、千歳茶に『大和屋』の紋を染め抜いた大暖簾をすいとくぐり、慣れた様子で入り込んだ。
「亭主、菊之丞は?!」
目を輝かせ、嶺次郎は勢いこんで尋ねた。弥一郎は叔父のあとから恐る恐る暖簾をくぐった。
(既に馴染みもいるのか?)
色事となると、この叔父はなんと素早い。呆れ返りながらも舌を巻く弥一郎だった。
出迎えに出た痩せぎすの亭主が、すまなそうに眉尻を下げた。
「内海様、菊之丞は生憎今…」
「なんじゃ、客か?」
嶺次郎は渋い顔で袂に手を突っ込むと、小判を一枚取り出した。
「これで…何とかならんかのう?」
「あほな。…四半時ほど前にあがりはったとこだっせ…」
亭主は手の中の小判を弄びながら、上目使いに嶺次郎を見上げた。
「ほれ」
嶺次郎が舌打ちしてあと二、三枚小判を取り出すと、
「ほな、かけあってみまひょ」
亭主は口元に薄い笑いを浮かべ、押し頂くようにして懐へ納めた。
ほどなくして、金で押し退けた客とともに亭主が二階の廊下に現れた。
「…これからいざ床入りってときに…殺生でんがな〜」
腹の出た町人の中年男が文句たらたらで降りてくる。
嶺次郎は弥一郎とともに差料をあずけ、そしらぬ顔で内所(二階へ揚る階段横、主人のいる部屋)に座っていた。
亭主は平身低頭しながら、通りまで客を送りだしている。
ころ合いを見計らったように、嶺次郎が腰をあげて廊下へ出た。
「叔父上?」
どちらへと言いかけたところ、二階からよく通る少年の声がした。
「何や…またあんさんか?」
はんなりとした上方訛りで、少年はうんざりしたように溜息をついた。
内所の入口に膝をついたまま、弥一郎は身を乗り出して二階をうかがった。
雪白の細面の貌に美しい弧を描く眉。漆黒の瞳はどこか投げやりで、懐手で欄干にもたれ、軽く顎を突き出すようにして階下を見下ろしている。
(…叔父上。ま、また懲りもせず)
弥一郎は思わず片手で顔をおおった。叔父はこういう高飛車な美形が好きなのだ。
叔父は藩校時代からに懸想していた相手に、数えきれぬほどの文を送り、ある時は夜這いを試み、数年に渡って交際を迫ったが、結局一顧だにされなかった。
それでもあきらめきれぬのか。こうもしつこく似た少年ばかり選ぶ叔父の気しれない。あちらは蔭間、こちらは客のはずなのに、浮ついた足取りで階段を上がっていく叔父は、今にも相手の足下にひれふさんばかりだ。連れの弥一郎のことなど忘れ果てている。
あんぐりと口を開けて見送る弥一郎の背に、亭主が声をかけた。
「若様は…どないしはります? 揚っていかれますか?」
半ば固まりながら、い、いや私は…と言いかけたところへ、振り袖に袴姿の小柄な少年が、しずしずと盆を捧げて現れた。
「お茶を…お持ちしました」
「藤若…遅いやないか! もうお客はん、揚ってしまいはったで」
鋭く叱責され、少年はうつむいたまま身をすくませた。
まだ十三、四歳だろうか?
いかにも物慣れぬ様子が弥一郎の哀れをさそった。
「茶なら私がいただこう…」
盆の上にすっと手を伸ばすと、少年が上目がちに見上げた。
「そなた…」
弥一郎の手が止まった。
ふっくらとした紅梅のごとき唇。未だ子どもらしい丸みを残す頬。おずおすと弥一郎を見上げる黒目がちの瞳に弥一郎は釘付けになった。
(三郎ぎみっ…)
よく見れば、大きな黒い眸以外、顔の造作が似ているわけでもない。しかし子鹿のような少年は、三郎が藩校へ入学してきた頃を思い出させ、弥一郎の胸は甘く疼いた。
*
結局、亭主にうまくいいくるめられ、弥一郎は二階へ揚ってしまった。相敵(あいかた)はさきほどの少年である。新入りらしい少年は、あまりいい部屋をあてがわれていなかった。弥一郎の身分を知ってか知らずか、急遽、亭主が他の蔭間と客に頼んで部屋をあけさせ、そこへ弥一郎を案内した。
枝垂れ桜の掛け軸が床の間を飾り、違い棚には華やかな蒔絵の手文庫。
屏風の向うには、おそらく夜具がのべてあるのか?
弥一郎を部屋に通す前、慌てて窓の障子戸をあけたようだが、そこはかとなく篭る淫媚な空気に弥一郎はうろたえ、高鳴る動悸をもてあました。
少年よりもさらに若い、八、九歳の童子二人が新しい膳部を運んできた。新たに席を整えると、小さな手をついて礼をし、引き下がっていった。
相手の少年はまだ客を取り初めて日が浅いと見え、弥一郎と向き合って座ったまま、気のきいた話のひとつもできない。弥一郎とて斯様な場所に足を踏み入れるのは初めてで、どう振る舞ってよいのやら…。
(お互いさまか…)
弥一郎はふと可笑しくなって笑みを洩らした。
つり込まれて微笑んだ少年の頬に、小さなえくぼが浮かんだ。
「そなた、名は?」
「藤若と申します」
少年はあらためて名乗ると、居住まいをただし、手をついて深々と礼をした。
「…そなた、もしや武家の出か?」
少年の所作から、ふとそう感じた。
藤若は黙ってうなずくと、酌をするつもりなのか、弥一郎の側へするすると膝行した。
さほど飲みたい気分ではなかったが、拒むのも可哀想な気がして、弥一郎は黙って杯を差し出した。
「藤若とやら…、なにゆえ斯様なところへ…」
口に出した瞬間、弥一郎は己の無神経さを恥じたが、
「わが家が…お取り潰しになりました」
藤若は意外に淡々と応えた。
「す、済まぬ。辛い話をさせる気はなかったのだ…」
「よろしいのです、もう慣れました…」
藤若は小さく微笑んで目を伏せた。
「父と兄は切腹。母は実家へ帰され、私は…親戚に騙され、ここへ売られて参りました」
「いったい何ゆえ…」
父や兄が死を賜るほどの罪を犯したというのか?
「父は…さる騒動に巻き込まれ、詰め腹を切らされたのでござります…」
「いずこの話じゃ?」
「藩の名は…お許しくださりませ」
藤若はきっぱり言うと、それ以上を語ろうとしなかった。
おそらくは物堅い中級藩士の一家だったのだろう。上司の罪をかぶって詰め腹とは…。弥一郎は父・帯刀のために闇に葬られた幾人かを思い、心の中で手を合わせて詫びた。
会話が途切れた気まずさもあり、藤若はつと立ち上がって窓から簾越しに夜空を見上げた。
肩ごしに弥一郎を振り返り、
「笛でもお聞かせしましょうか」
「…う、うむ」
弥一郎は救われたようにうなずいた。
朧月夜の静寂に澄みきった笛の音が響きわたる。十二、三の少年にしてはなかなかの技量であった。時に物悲しく、時に激しく情に訴えかける音色に、武家の子でありながら、苦界に身を落とした少年の叫びを聞いた気がした。
なぜ、武士が斯様な辱めを受けながら生きておれるのか?
弥一郎の心に浮かんだ疑問を、藤若は敏感に読み取ったらしい。笛の音が止んだ。目で問いかけた弥一郎に、藤若は子どもとは思えぬ感情を殺し切った声音で語った。
「…いつの日か…ここの勤めが終わったら、国許へ帰りまする」
「帰って…いかがする? もはや家も家族も…」
「…父と兄の仇を討ちまする」
「なに…?」
「私は…そのためだけに生きておるのです」
「たったひとりで…仇討ちをするつもりか?」
「はい…」
膝の上、笛を握りしめた拳が震え、黒目がちの瞳から大粒の涙がこぼれた。
大刀も握れぬような華奢な手で。助太刀もなしに仇に挑む気か?
いや、そのような気概もまだ売られてきて日が浅いからじゃ。色街の泥水につかり、辛酸をなめつくせば、
可憐で澄んだ眸もいつの日にか…。
「こちらへ…参らぬか?」
弥一郎は思わず手を差し伸べていた。
赤の他人、それも客として出会った自分に、何がしてやれるわけでもない。それどころか、藤若とは今宵限りの縁だろう。中途半端に情けをかけても始まらぬではないか…
藤若は大人しくうなずくと、笛を置いてふたたび弥一郎の側へにじり寄った。
「お武家様の…お名前をうかがってもよろしゅうござりますか?」
もとより真の名を尋ねる気はないのだろう。今宵一晩、何と呼べばいいか…聞きたかっただけかもしれない。
だが弥一郎は、
「…弥一郎と申す」
名字こそ名乗らねど、真の名で答えた。
「そなたは…?」
弥一郎は藤若の武士の子としての名を尋ねた。
藤若は寂し気な笑みを浮かべて、小さく首を横にふった。
「いまは…大和屋の藤若。それ以外の名を持ちませぬ…」
花色の振り袖の腕があがり、白い前腕が弥一郎の肩に這い登ってきた。そっと弥一郎の胸に頬を寄せる仕種に、躯の奥から激しく突き上げるものを感じた。弥一郎は両腕で藤若を抱きしめ、前髪に頬を寄せた。
骨細でしなやかな身体をかき抱いているうちに、弥一郎は三郎を抱いているかのような錯覚に捕われた。別人とわかっていても、心は昂り、身体は熱く脈打ち始めた。
(何と…これでは叔父上と変わらぬな…)
やはり己も嶺次郎の身内かと、藤若の衿をくつろげながら、自嘲的な笑みがもれる。
(所詮、一夜の慰め…。そう割り切ってしまえばよいのだ)
大きく開いた袷から白い胸が露になった。吸い寄せられるように唇をよせ、加減も知らずにいきなり強く肌を吸うと、藤若が小さな悲鳴をあげた。
(私が揚らなければ、おそらく藤若は別の客をとらされただろう。善人ぶってみても始まらぬではないか…)
愛撫の合間にふと、弥一郎は問うように目をあげた。行灯の火影に照らされ、藤若の濡れ濡れとした眸が、一心に弥一郎を見つめている。
(…赦せ)
弥一郎は胸の中で詫びると、華奢な身体をゆっくりと畳の上に組み敷いていった。
つづく
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