三十の巻
「松が枝」2




by 戸田采女

 師走。

 江戸の町に初雪が降り、小川町の上屋敷でも松が枝にうっすらと雪化粧をほどこした。

 明和五年も押し詰まる中、信輝公の四十九日の法要が霊巌寺にて営まれた。翌日、藩邸にて右筆が代筆した遺言状が開封された。

 藩邸、表御殿の大書院にて、江戸家老、留守居役、目付、奉行、組頭級の家臣がうち揃うなか、新藩主の惣一郎信元、信輝公正室・牧の方あらため宝寿院、惣一郎正室・綾姫と太刀持ちの小姓が上段の間へと入室した。信輝公三男・三郎信尭と後見の誠之進は、家臣団の一番上座に控えていた。

 誠之進は三郎は上段の間に着座すべきと思わぬでもなかったが、ここは宝寿院の手前、控えめに振る舞うがよかろうと納得した。当の三郎は家臣団と席を同じくすることを、全く意に介した様子はない。

 信輝公にもっとも側近く仕えた側用人の青木忠佐衛門は、信輝公の密葬が済むと早々に致仕を願いでて出家した。信輝公亡きあと、もはや政(まつりごと)にはかかわらぬとの青木の決意を、惣一郎は受け入れたのだった。

 誠之進の隣には留守居役を引退した堀田又座右衛門、向いには江戸家老の武村権六、現・留守居役の櫻田右近が席を占めている。

 惣一郎が上段の間中央に着座した。小姓が斜後ろに控え、続いて宝寿院、綾姫が打ち掛けの裾を翻し、惣一郎の両脇に座った。

 それを合図に家臣一同平伏した。

「面をあげい」
居並ぶ家臣を前に、惣一郎はよく通る声で厳かに命じた。
一同が半身を起すと、
「武村…始めよ」
惣一郎は左手前方に控える江戸家老に向い、小さくうなずいた。

 武村は上段の間に向って一礼すると、大書院に集まった者たちに向って声を張り上げた。

「亡き大殿は九月にお倒れになったとき、御自身の病をおもく見られ、万が一の時、家中が混乱せぬようにと、内密に御遺言状をしたためられた由にござる」

 大書院のあちこちからどよめきが洩れ、家臣たちがさもありなんとうなずく姿が見受けられた。

 武村は懐から分厚い書状を取り出し、恭しく畳の上に置いた。
「これなる御遺言状。亡き大殿の命を受け、ここにおられる先の留守居役・堀田又左衛門殿と某とで、今日までお預かりしてまいった次第にござる」
上座の惣一郎は大きくうなずくと、
「爺、父上の御遺言、そなたが読み上げよ」
誠之進の隣に座る堀田に声をかけた。

 信輝公の死後、堀田はすぐにも追い腹を切ろうとしたが、惣一郎と右近に阻まれた。以来、堀田は半ば生きる屍。惣一郎はこの場で堀田に役目を与え、なんとか気力を取り戻させようというのだろう。幼少のみぎり守役を勤めた堀田を、惣一郎はまことの祖父のごとく慕っていた。

 しかし堀田は白髪頭を小さく横にふり、
「右近殿にお申し付けくだされ」
自らが推挙し留守居の心得を一から仕込んだ右近に、その任を譲った。

 一度隠居したのち、信輝公に乞われて再び出仕した堀田であった。

 なれど此度こそ藩政からは身を引こうという堀田の決意は固い。

 堀田の頑な様子に惣一郎の溜息が鈍く漂った。諦めた惣一郎は右近と静かに目を合わせ、無言でうなずいた。

 右近が隣の武村に一礼して御遺言状を手にとった。しなやかな指先が封を開き、中から折り畳んだ書状を取り出して広げる。右近は居住まいを正し、深く息を吸った。 

「御一同」

 右近の桜色の唇から発せられた声は、凍てつく朝の澄んだ空気のごとく、凛として大書院に響き渡った。思わず列席の家臣が背筋を伸ばす。

「僭越ながら某、櫻田右近が、ただいまより亡き大殿の御遺言をお伝え申し上げまする」

 ふたたび惣一郎がうなずき、先を促した。

 真剣な面持ちで御遺言を読み上げる右近を、誠之進は真向かいから注視していた。

 御遺言は溝口主膳を始めとする国許の重臣、並びに江戸家老、留守居役の長年の功労をたたえる言葉で始まった。次いて近年の洪水や旱魃による苦境を、共に手を携えて乗り切った中・下級藩士たちへのお言葉があった。信輝公は江戸詰めの家臣たちにも、国許に家族を残し、勤番につく寂しさ、苦労を労うことも忘れていない。

 楽の音のごとき右近の声にのり、亡き信輝公の思いが居並ぶ家臣たちに伝えられた。大書院のあちこちから啜り泣く声が聞こえてくる。誠之進も込み上げる熱いものを堪えていた。

 御遺言の内容が、いよいよご自分亡きあとの話に及んだ。

 まずは側用人の青木や小姓たちの身の振り方である。

「側仕の者には十分なる手当を与え、藩邸にて引き続き奉公するも隠居或いは致仕何れも勝手次第候」

「高山藩結城家家督は惣一郎信元が相続すべし。藩主となり候えば、江戸表においては家老武村と留守居役堀田、国許の政務は全て筆頭家老溝口主膳に計り候様」

「惣一郎にあっては室・綾と仲睦まじく、府中藩松平家と幾久しく親交に努め候べし」

 淡々と読み上げる右近に向い、惣一郎は照れたようにうなずき、綾姫は上段の間から薄く微笑みかけた。

「三郎信尭儀元服の後は一一」

 右近の書状を繰る手が一瞬止まった。

 誠之進が息を飲んで見守る中、右近がふたたび口を開いた。

「高山藩領内より知行八千石を与え、分家の儀許し候。藩主惣一郎を助け、領民の安寧第一と心得候べし」 

「なお三郎の後見溝口誠之進儀、溝口主膳隠居後は跡目を襲い筆頭家老勤め候べし。藩主惣一郎を盛立て、末永く藩士領民に尽し候様…」

 溜息のように右近の言葉がかき消えた。

 満座が水を打ったように静まりかえっていた。

 家臣一同首を垂れ、それぞれに亡き信輝公の言葉を反芻しているかのようだった。 

 三郎は誠之進の隣で肩を震わせ、誠之進自身も信輝公から自分へのお言葉を胸に抱き、じっと噛み締めていたが、

「大殿のお言葉は…まだ終わりではなかろう。右近、先を続けよ」

 突如、上段の間から宝寿院が低く抑えた声を発した。

 右近は睫を伏せて首を垂れた。

「…明和五年十月二日。結城因幡守信輝…と御署名にござります」

「偽りを申すな、右近。わらわへのお言葉は?」
宝寿院の声が震えていた。
「…母上」
母をたしなめる、苦しげな惣一郎の声が続いた。

「右近! そなた殿からわらわへのお言葉、よもや見過ごしたのではあるまいな。今一度、初めから読んできかせよ!」
「母上、どうかお静まりくださりませ」
惣一郎は母のもとへ膝行し、手をとって宥めようとした。
「後ほど、私とともに奥で御遺言状を拝見しましょう」
「惣一郎っ!」
「ここはひとまず、奥へ戻って…」
「お、おのれっ…」
「母上、どうかこの場はひとまず」

 惣一郎はちらりと上段の間に通じる横手の襖を見遣った。
「藤江! 母上をはようお連れもうせ」
これ以上、母に恥の上塗りはさせまいと、懸命にこの場を納めようとする惣一郎だった。

 右近はひたすら無言で平伏し、惣一郎にすべてを委ねようとしていた。

 綾姫は人形のごとき無表情で傍観者に徹している。

 誠之進はじっと首を垂れ、宝寿院と目を合わすまいとした。三郎の養子縁組の一件で宝寿院に思うところは多々あれど、ひとことの御遺言もなかったご正室を哀れと思った。

 惣一郎に命じられ、お年寄の藤江が素早く入室した。
「ささ、お方さまっ」
藤江は自らの背を下座の家臣団に向け、宝寿院の背にそっと手をあてて促した。哀れな女主人の姿を衆目から隠そうとする姿に、誠之進は深く感じ入った。

 誠之進はこのまま平伏して宝寿院を見送るつもりだったが、
「八千石とは笑止」
宝寿院の乾いた呟きが誠之進のところまで届いた。
「…泥棒猫め」
鋭い言葉の切っ先が三郎に向けられた。

「まことに殿のお胤かどうかも怪しいものじゃ」

 気がつけば隣の三郎が面をあげていた。
「三郎ぎみっ…」

(お顔をあげてはなりませぬっ…)

 誠之進はそう続けるつもりだったが、時すでに遅く、三郎と宝寿院の視線が正面から出会っていた。

 潤んだ瞳で茫洋と見上げる三郎。

 藤江の肩越しに三郎をひたと見つめる宝寿院。

 三郎を射殺さんばかりの眼差しに、さすがの誠之進も息を飲んだ。

「…さほどに領地が欲しくば、なにゆえ本田家五万石を棒に振った?」
宝寿院はゆっくりと視線を誠之進に向け、
「泥棒猫の息子が八千石を足がかりに、いずれ結城家十一万石を我が物にする気か?」
嬲るような口調で問うた。

「滅相も…ござりませぬ」
乗せられるまいと、誠之進は丹田に力をこめた。
ちらりと目の端で三郎の横顔を見れば、頬からは血の気がひき、喉が微かに震えていた。

(三郎ぎみっ…ここはどうか堪えてくだされ!)

「惣一郎」
宝寿院は三郎主従を見据えたまま、
「…そなたもいずれ寝首をかかれぬよう、気をつけることじゃ」
低く言い捨てた。
「母上っ…いい加減になされませ」

 惣一郎は自ら立ち上がると、
「さ、参りましょう…」
母を半ば強引に上段の間から連れ去った。
藤江と太刀持ちの小姓が、小走りに惣一郎と宝寿院の後に続いた。

 右近が物言いたげな瞳で惣一郎の背を見送っていたが、

「見苦しきことよな…」

 鈴をひと振りするがごとき呟きが、上段の間からもれた。

 ひとり端座していた綾姫が、誰にともなく目を細めて笑っている。

 誠之進や右近、上席の家臣が呆然と見守る中、綾姫は立ち上がると打ち掛けの裾を翻してその場をあとにした。
 

つづく


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