三十の巻
「松が枝」3




by 戸田采女

 年が暮れて、年が明けた。

 明和六年正月。江戸の町には鉛色の空が低くたれこめ、時おり粉雪が舞った。

 亡き大殿、因幡守信輝は遺言状で三郎の分家を認め、八千石の知行を与えるよう言い残した。惣一郎や宝寿院の手前、初め誠之進が望んでいた石高はそれより低い五千石程度だった。

 一万石も与えてしまえば、もはや大名扱いで参勤交代の義務が生ずる。その煩わしさを避けつつ、できる限りの知行を与えようという信輝公の親心だ。

 されどそれが宝寿院の怒りを買った。
 
『まことに殿のお胤かどうか怪しいものじゃ』

『泥棒猫の息子が八千石を足がかりに、いずれ結城家十一万石を我が物にする気か?』

 三郎は本田家との養子縁組の裏は知らされていないが、自分の存在が宝寿院にとって目障りなことは薄々気付いていた。なれど父を失ったばかりで心が弱っているとき、三郎は苛烈な言葉の鞭で打ちのめされた。とりわけ家臣の面前で母・おひろを侮辱され、口惜しさに震えたに違いない。

 誠之進は下手に言葉を尽すより、ひたすら寄り添うことで三郎を癒そうとした。

 亡き信輝公はもとより、母・おひろも祖父・久右衛門も三郎をこよなく愛していた。自分の存在など三人に代わるべくもないが、これより先は自分と溝口家が生涯側にあり三郎を支えるのだと、誠之進は誓いを新たにした。

 正月とはいえ藩邸内はひっそりと静まり返っていた。誠之進と三郎も深い喪失感に浸りながら東御殿で新年を迎えた。誠之進は三郎と、ある時は信輝公の菩提を弔う写経をしたり、ある時は火鉢の側でじっと肩を寄せあい長い時を過ごした。

 宝寿院の三郎への悪意の根は、突き詰めれば信輝公をおひろに奪われた嫉妬だ。武家の正室とは普通もっと達観したものと思っていたが、宝寿院は自分のほうから信輝公に惚れて嫁いできたようなもの。殿様の心が離れたのちは、世嗣・惣一郎の生母であることと、己の出自にのみすがって生きていたのやもしれぬ。

 三郎が如何に心を砕こうと、長年燻り続けた怨念はそう簡単に消えはしないだろう。かくも執念深い女子もいるものかと、誠之進はそら恐ろしい心地がした。

 本田家との養子縁組の件以来、誠之進は腹をくくっていた。

 この先、三郎に向けられた刃は、すべて自分が盾になって防ぎきる。

 此度のような場合、いかなる侮辱を受けようと、宝寿院に対しては異を唱えずひたすら沈黙し、藩主の惣一郎と良好な関係を保つことこそ肝要と、誠之進は忍の一字で耐えた。

 信輝公は遺言状とともに、もう一通、惣一郎にあてて私信を残していた。その内容は誠之進の知る所ではなかったが、おそらく三郎の将来を託した言葉も多く綴られているに違いない。

 源蔵ら側近たちも、三郎の心を知りわが事のように胸を痛めた。皆が黙って三郎に寄り添い、励ますような空気があった。源蔵は三郎に明るい笑顔が戻るよう、相変わらず道化役に徹しており、倫太郎は三郎に求められれば喜んで剣術の稽古につきあった。

 今が真冬でさえなければ、正直、早々に国許へ引き揚げたいところだったが、藩主・惣一郎の強いすすめもあり、三郎主従は桜の季節まで江戸に滞在することとあいなった。




 松の内が過ぎた頃、惣一郎は三郎を雪見に連れ出した。無論おしのびである。

 水入らずで話したいことがあるという。

 船宿に供回りを残し、惣一郎は三郎とふたりだけで屋根船に乗った。無論、警護のため、惣一郎の屋根船にもう一双の小船がつかず離れず従っている。乗っているのは誠之進と倫太郎だ。

 雪見は文人墨士か、又は武家に限りたりしも、時によりてはいずれの粋士か、障子船に竿ささせて、障子の内には置炬燵、絶品の美女、声静かにささやきて、隅田川両岸の雪景を鑑賞し、船を三谷の岸につなぎ、八百善にあらざれば有明楼にて盃をかたむくあり…。(岡本綺堂「風俗往来」) 

 明和より時代が下った頃の描写だが、粋人の惣一郎ならばこれくらいのことはやりそうだ。

 置炬燵を挟み、惣一郎・三郎兄弟は父の思い出をしみじみと語りあっていた。

「昔こうして父上と雪見に出かけたことがあってな…」
惣一郎は遠い目をして語りだした。
「余が元服前の頃じゃ」
三郎が目を輝かせて先をうながす。
「父上がさらさらと画帳に筆を走らせるのを、飽くことなく眺めていたものだ」
「兄上も昔から絵を描かれたのですね?」
惣一郎は曖昧に微笑むと、
「そなたは? 絵は嗜まぬのか?」
三郎が照れくさそうに笑った。
「私は芸事はからきしで」
「さようか?」
「舞も謳も一応誠之進に稽古をさせられておりますが、どうも苦手です」
「ふむ」
「野育ちゆえ、やはり剣術や馬術のほうが性にあっておりまする」
「ひとそれぞれじゃな」
惣一郎がくすりと笑い、兄弟は穏やかに笑みを交わした。

 ふたりはしばしの間、淡く雪化粧を施した向島の景色を眺めていた。
惣一郎は遠くに視線を投げたまま呟いた。
「のう三郎」
「はい」
「過日は…辛い思いをさせてすまなんだ」
「兄上…」
「母上を…悪う思わんでほしい」
「私は決してそのような」
三郎が真直ぐに惣一郎を見つめ、かぶりを振った。
「母上は…お寂しいのじゃ」
惣一郎は目を伏せて溜息をついた。
「八つ当たりされたそなたはたまったものではなかろうが…」
「いえ、私のことは。兄上こそ、どうぞお気遣いなさいますな」

 三郎は大人になりきってはおらぬが、もはや子供でもない。惣一郎にこびへつらうわけでもなく、ごく自然に己の立場を弁え、控えめに振るまうのが好ましかった。

「三郎」
惣一郎は置炬燵を挟んで弟を見つめた。
「そなたの身内はもはや余ひとりになってしもうたな」
「はい…」
「これからは、余を父ともおもうて頼るがよい」

 黒目がちの瞳が一気に潤んだ。
声を出せば嗚咽が洩れてしまうのか。
三郎は睫を伏せて、懸命に唇をかんでいた。

「そなたの分家の儀、余も納得しているゆえ案ずることはない」
「あにうえ…」
「なれどしばし時をくれぬか。母上の気が静まるのを待って、余が説得するゆえ…」

 三郎は後ずさりして炬燵から出ると、惣一郎に向って平伏した。
「何事も兄上のお心にままに」
「うむ…余にまかせてくれ」

 惣一郎は畏まり平伏する三郎をしばし見つめていたが、
「三郎、こちらへ参れ」
目元を軽く和ませて手招きした。
三郎は一礼すると、置炬燵の脇をすり抜けて移動した。
三郎の動きに伴い、障子船が軽く左右に揺れた。

 障子戸の外では、綿毛のような雪がちらちら川面に降り注いでいた。
「殿様、お寒うはござりませぬか?」
蓑を着た船頭が、中を覗き込むように尋ねた。
「かまわぬ。しばらくこのままにしておけ」
「へい」
船頭は軽く頭を下げ、再びとも(船尾)へ戻って竿をあやつり始めた。

 三郎が自分の脇に座ると、惣一郎はおもむろに懐から袱紗包みを取り出した。袱紗を広げて中のものを取り出すと、三郎がはっと頬を強張らせた。

「父上の御遺髪じゃ」

 惣一郎は葬儀の前、父の遺髪を秘かにとっておいた。高山で隠居したいといった父の言葉を覚えていたのだ。

 惣一郎は三郎の手を取り、信輝公の遺髪の束を握らせた。

「関川の…そなたの母の墓所に埋めるがよい」

 三郎は一瞬息を飲んだ後、
「さようなこと…まことにお許しいただけるのですか?」
おそるおそる兄を見上げた。

 借りにも藩主の遺髪である。国許での国葬に用いるならともかく、城を出た側室の墓に共に埋めるなど、普通ならありえぬこと。

「重臣どもに言う必要はないぞ。そなたと余だけの秘密じゃ」
「兄上?!」
惣一郎は片眉をあげて笑う。
「なれどそなたのことじゃ。誠之進には洩らしてしまうのだろうな」
「そ、それは…」
「はは、構わぬ構わぬ…」
惣一郎は鷹揚に笑った。

 三郎の頬にも薄いえくぼが浮んだ。

 惣一郎は膝の上で遺髪を握りしめた三郎の手に、己の手を重ねた。
「母上にはまことに申し訳なきことなれど、余には父上のお気持ちがようわかる」
「…それは?」
「父上はそなたの母、おひろの側へ行きたいのじゃ」
「あ、あにうえっ…」、
「余にも心底愛しい者がおる。生涯その者を側近く置きたいと思う…」
「兄上の愛しいお方とは…?」
黒目がちの瞳が素直な興味を示した。

 惣一郎は右近の刻んだような横顔を瞼の裏に描いた。

「なかなか我が物にはならぬがな…」

 惣一郎は静かに嘆息した。

「手にしたと思うたら、次の瞬間、羽衣を残して我が手からすり抜けるような奴よ」
「兄上…それではまるで天女にござりますな?」
小首をかしげる三郎を見つめ、惣一郎は微苦笑を浮かべた。
 
「されど恋しい気持は誰にも止められぬ」

 言葉にして、そのほろ苦さを噛みしめる惣一郎だった。

 障子戸の外を見遣れば、いつの間にか雪が繁くなっていた。
三郎が身を乗り出して、気遣わしげな視線で後ろに続く小舟を振り返った。
 
 三郎の気持を察した惣一郎は、
「そろそろ岸に戻って料理屋でひと休みするか?」
「は、はい…」
「戻ってやらねば、誠之進らが凍えてしまうのう…」

 頬を染める三郎を前に、惣一郎は朗らかな笑い声をたてた。




 おしのびの雪見からしばらくして、惣一郎は三郎主従を中屋敷へと移した。三郎が藩邸内にいるというだけで、やはり宝寿院は心穏やかではなかったらしい。無用の衝突を避けるための惣一郎の配慮である。

 惣一郎は仙之丞に三郎主従の世話を申し付けた。

「そなたなら中屋敷の勝手もようわかっておる。引き受けてくれるな」
「仰せとあらば喜んで」
「若党や下働きの者も、そなたが適当に選んでつれていけ」
「はっ」
「桜が咲く頃には国許へ発ちたいと言うておる。江戸におるのもあとふた月ほどじゃ。父上の四十九日も過ぎたことだし、そなた、三郎主従を江戸見物に連れていってやるがよい」
「承知つかまつりました」

「それともうひとつ」
「はい」
「右近を…」
言いよどんだ惣一郎を仙之丞はひたと見つめた。
「いや、よい」
惣一郎は首を小さく左右に降った。

(誠之進と右近がふたりきりで会わぬよう、仙之丞に見はらせようとは一一)

 いくら心を許した仙之丞相手でも、口にするのは恥だった。

 ところが、
「右近様は御用繁多。中屋敷を訪れる暇などござりませぬでしょう…」
仙之丞は賢しげな瞳で主人を見上げた。

「仙之丞」

「ご案じめされますな」

「仙之丞、そなた…?」

「私に、おまかせくださりませ」

 万事心得ているかのように、仙之丞が請け合った。




「なんと…」

 三郎主従が藩邸から中屋敷に移されると聞き、誠之進は思わず目を見開いた。

 三郎のためには宝寿院と距離を置くのが望ましかったが、藩邸を出てしまったのでは例の探索ができなくなる。誠之進としては痛し痒しである。

 誠之進のもとへ惣一郎の意を伝えにきたのは、平岡仙之丞だった。

「此度の殿のおはからい、誓って、三郎ぎみを藩邸から追い出そうというのではありませぬ」
「平岡殿、それは某も承知しておるが…」
「藩邸内で宝寿院様に遠慮して過ごされるより、せっかく春まで江戸に御滞在ならば、中屋敷で自由にお過ごしいただくようにとの思し召しにござります」
「うむ。殿にさような御配慮をいただくとは、我らとしては恐悦至極にござる」
誠之進は丁寧に頭を下げつつも、正直なところ間の悪さに苛立っていた。

 信輝公の初七日の法要の後、誠之進は右近とある約束をした。

 信輝公の死因に不審を抱いたふたりは、医師・日向道伯の周辺や、藩邸内で不審な動きをする者を探りだそうと話し合った。御用繁多な右近に代わり、江戸藩邸では気楽な身分の誠之進が、台所や中間部屋に出入りし、下々の者から情報を集めようとしていた。

 桜が咲く頃には国許へ発たねばならぬ。それまでに何とか真実を探りだし、右近への置き土産としたいところだった。

「溝口様は気乗りせぬ御様子…。何か差し障りがござりますでしょうか?」
仙之丞に目の奥をじっと見つめられ、
「いや…差し障りなどはござらぬ」
誠之進は言下に否定した。
下手に言葉を濁して、仙之丞に痛くもない腹を探られては困る。

(仕方ない…藩邸へは別の用事を作って足しげく通おう)

「殿のお気持ち、ありがたく頂戴つかまつる。あとで御挨拶にあがるゆえ」
「それがよろしいかと存じます」
つつがなく役目を終えた仙之丞が、笑みを浮かべて一礼した。

 去り際、仙之丞が障子戸の手前でふと立ち止まった。

「殿は『余にとってもたったひとりの弟じゃ』と、三郎ぎみを心から慈しんでおられます」
「平岡殿…」
「決して悪いようにはいたさぬ、と」
「ありがたき仰せにござる」
誠之進は端座したまま、仙之丞の背に向って軽く頭を下げた。
「溝口様におかれましては国家老となられたあかつきも、分家の後見として末永く三郎ぎみのお側に…」

「それがし…無論そのつもりにござる」

 迷いなく約定した誠之進に、
「…御免」
仙之丞は肩越しにうなずき、開かれた障子戸の向こうへ消えていった。

 誠之進は微動だにせず、遠ざかる足音を聞いていた。

(考えすぎか…?)

 親身な仙之丞の声音の裏に、誠之進は釘を差すがごとき強い意志の存在を感じた。


松が枝 了


「松が枝」2「寒椿」1
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