三十一の巻
「寒椿」2




by 戸田采女

 中屋敷の梅が咲き始めた。羽毛のごとき雪もちらつく中、仄かな香りが春の気配を感じさせた。

 国許へ戻るまえに江戸表の情勢が知りたいと、誠之進は三郎の許しを得て二、三日に一度は小川町の藩邸に通っていた。信輝公の遺言で次期筆頭家老に指名された誠之進だったが、勇み足は禁物だった。家老になる前から江戸藩邸のこと、とくに入費に関してあれこれ詮索しては、出過ぎた真似と思われるのは必定。誠之進は隠居した前・留守居役の堀田のご機嫌伺いを訪問の表向きの理由としていた。

 惣一郎のところへも必ず顔を出したが、まだ藩主となって余裕がないのか、誠之進に国許の様子を尋ねることはほとんどない。惣一郎はもともと政治には関心が薄い。国許の仕置きは全て家老に任すというなら、それはそれでやりやすいと誠之進は思った。
(仕置き=政務のこと。直仕置きといえば、藩主の親政のこと。『お仕置き』ではありましぇん;^^)

 中屋敷での三郎の暮らしぶりについては、惣一郎は意外なほど細やかに気を使ってくれる。来月、三郎主従が国許へ帰る前に、盛大に花見の船を出そうという。大きめの屋形船を借り、次はそなたら近習の者も一緒にのせてやるぞと、遊びの話となると惣一郎の声が弾んだ。

 一方、留守居部屋を訪ねても右近は不在のことが多く、誠之進が三郎に付き従い中屋敷に移ってからは、藩邸で一、二度短い挨拶を交わしたきりだった。そろそろ一度ゆっくり会いたいと誠之進は思っていた。

 誠之進は藩邸にいくと菓子を片手に台所に立ち寄り、料理人や下女と世間話をしたり、時には中間たちとするめを肴に一杯やって帰る。昔の江戸詰め時代にも感じたことだが、下手な藩士より、彼等のほうが人の出入りを含め、余程藩邸内の事情に通じていたりする。無論、いい加減な噂も多々あったが、やはり彼等の情報網は捨てがたい。

 自害した医師の日向道伯と弟子については、皆なかなか口がかたかった。なれど誠之進が若い弟子たちの行く末に同情的な姿勢を見せるうちに、ようやくひとりの居所がわかった。まだ前髪を落とさぬ少年で、芝神明近くの長屋に暮らす母親のもとへ戻ったらしい。誠之進はさっそく帰りに訪ねてみようと思った。

 未の刻(午後二時)を過ぎた頃、誠之進は藩邸を出た。

 今から芝へ回るなら、帰りは遅くなる。小腹を満たしておこうと馴染みの蕎麦屋台へ寄った。この時期、鴨なんばんもうまいが、誠之進は最近『あられ』が気に入っていた。
(あられ蕎麦=海苔をしいた上に小柱を散らしたかけ蕎麦)

 ちょうど先客がふたりばかりいた。この近くの屋敷の勤番侍だろう。話す言葉から察するに家中の者ではなさそうだった。

「ところでよ、高山藩の新しい御留守居役だが…」
右近の話題が出て、誠之進は思わず耳をそばだてた。
「おぬしも顔を拝んだか? 役者も裸足で逃げ出すような美男じゃろ」
「うむ。肌などまるで女子のようじゃ。やはりあれか、雪国は男も皆そうなのか?」 「まさか」
片割れがさもおかしそうに喉を鳴らした。
「前髪の小姓ならともかく…あれが同じ男とは思えんわい」
「殿様もいたく御寵愛だそうだ」
「やはりあれか、御物あがりか?!」
「それがのう…」
男が好色な笑いをもらした。
「まだ『あがって』おられぬらしい」
「なにっ?」
「ふふふ…高山藩中屋敷におった渡り中間がな、申しておったのよ。…今でも閨で可愛がられておいでとか」
「まことか、それは」
「昼も夜もお忙しいことよのお…くっくっく」
「いやはや、それでは他の家来の出る幕がないのう」
「いかにも」
ひとしきり笑いあったところで、
「へい、お待ち」
湯気のたった丼が出された。
ふたりは汁を一口飲み、
「おお、これはあったまるのう…」
「腹にしみるわい」
満足げな溜息をつき、あとは黙々と蕎麦をたぐっている。

(い、今の話は何だ……)

 屋台の手前で誠之進は石のごとく固まっていた。
「旦那、何にいたしやしょう?」
親爺が愛想笑いを浮かべて見上げる。
「いや…よい。またにする」
誠之進は言葉少なに答えると、素早くきびすを返した。
足早に雉子橋通りを南へ行き、最後にはほとんど駆け出さんばかりに歩を速めた。

 周りの景色は色を失い、鉄槌で殴られたごとき衝撃に、行き交う人の声も荷車の音も、誠之進の耳には届かない。

 信じられぬ話を聞いた。

 あってはならぬ話を聞いた。

 右近が…御物あがりなど、たわけたことを言うな!

 美男ゆえ、周りが勝手に面白おかしく話をでっちあげておるだけじゃ。

 あれほど…あれほど衆道を厭うていた右近が、男に肌身を許すわけがっ…




つづく


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背景は「十五夜」さんからお借りしています。


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