三十一の巻
「寒椿」4




by 戸田采女

 道場で右近と半刻ほど打ち合ったものの、誠之進は例の噂が頭を離れず、気が散じて気魄がたらなかった。

 右近も誠之進が本調子でないと感じたのか、ほどほどに稽古を切り上げ、母屋で茶でもどうだという。誠之進は言葉少なにうなずいた。




「ここは私が中屋敷の用人を勤めていた頃、自室として使わせていただいた部屋じゃ」

 右近は誠之進を以前の自室に案内し、障子戸をあけた。
床の間に違い棚、文机だけの簡素な部屋だったが、右近は懐かしげに目を細めた。
竹の花器には、おそらくは手折ったばかりの椿の枝が一輪、楚々といけられていた。

「仙之丞、これは御事(おこと)が?」
右近が嬉しげに後ろを振り返る。
新しい炭を運んできた仙之丞が照れたような笑みを浮かべた。

「さ、誠之進、何をしておる。入らぬか?」
入口に立ったままの誠之進を、右近はいぶかしげに見た。
「…お長屋ではなく、ここを使っておったのか?」
誠之進は低い声音で尋ねた。
「うむ。家臣の数も少なかったゆえ…警護の面でもそのほうが安心だったのだ」
「破格の扱いじゃな…」

 さきほど三郎の座敷にいた時と同じ、抑揚のない心を見せまいとする声だ。

(今日の誠之進は…やはり様子がおかしい)

「ここにつったっていても始まらぬ。さあ中へ入れ、誠之進」
右近は誠之進の肩を軽く叩いた。
ようやく誠之進が部屋へ足を踏み入れると、仙之丞も後に続き、手際よく火鉢の炭をかえた。
「仙之丞、すまぬが茶を持ってきてくれ」
「かしこまりました」
仙之丞は軽く目礼し、部屋を後にした。

 誠之進は未だに入口近くに佇み、部屋の中を吟味するがごとく見渡している。

「誠之進、はよう座れ」
右近は自分が先に火鉢の側に座り、誠之進を促した。
ようやく誠之進が歩み寄り、右近の向いに腰を降ろした。

「して誠之進」
「うむ」
「例の探索の進み具合は?」
ふたりになれば当然聞こうと思っていた話だった。
誠之進は軽く溜息をつくと、
「道伯殿の弟子たちの行方を探っておるのだが…これがなかなか」
「むずかしいか」
「ひとりだけ、所在がわかった。入門したてだった前髪の助手が、親許へ帰っているそうな」
「おお、それはぜひ話をきかねば」
「うむ、芝神明の近くの長屋らしい。一度訪ねてみるつもりじゃ」
「そうか。貴公にばかり頼って申し訳ないが…」
「なに、御留守居役の貴公が軽々しく動くわけにはいかぬ」
「誠之進…」
右近は感謝を込めて微笑んだが、誠之進は右近と目が合うと、頬を強張らせて視線を逸らした。

「貴公…今日はいかがしたのだ?」
いよいよ不審に思った右近が膝を乗り出したところ、
「右近さま、茶をお持ちしました」
障子戸の向こうから声がした。
「仙之丞か。かたじけない」
右近の声を合図に仙之丞が入室し、茶碗をふたりの前に置くと、一礼して退出した。

 ふたたび誠之進とふたりきりになった。

 右近は遠ざかっていく仙之丞の足音に耳をすませた。障子戸をたてきった八畳の空間に沈黙が降りた。

 右近は茶碗を手にとり、ゆっくりと茶を喫した。

 誠之進は物いいたげな目をしながらも、相変わらずだんまりを決め込んでいる。右近がたまりかねて自分のほうから理由を尋ねようとしたときだった。
 
「藩邸の近くでな…噂をきいた」
誠之進の声が暗い熱を帯びていた。
「うわさ?」

 誠之進が逡巡している。
「噂とは何じゃ?」
右近が焦れたように迫ると、
「い、いや…あまりに途方もない話しゆえ」
何やら腰がひけたように言いよどんだ。
「いかがしたのだ。貴公らしくもない…。はっきり申せ、誠之進」
誠之進が膝の上で右手をぎゅうと握り込んだ。
「…いや、やはり」
「誠之進!」

 ややあって、誠之進は覚悟したように鳶色の双眸を見開いた。
「貴公が…殿の伽をしているというのだ」

 友の口をついて出た言葉に右近は色を失った。無数の針が胸に突き刺さったような感覚だった。

(ついに…誠之進に知られてしまったか)

 この『真実』が友の耳に入る日を右近は何より恐れていた。

 恐れるというよりは、御用繁多を言い訳に考えまいとしていた。

 されど、いつかは知れることだった。

 惣一郎と右近の関係は江戸藩邸では公然の秘密だ。

 誠之進が江戸へ出てくれば、知れるのは時間の問題だった。

 右近が一言も発さず凝然と見つめ返していると、
「す、すまぬ…斯様な莫迦げた話、私とて信じたわけではないが…」
誠之進が慌てて言い募った。
己でふっておいて、失言と言わんばかりにこの話を片付けようとしている。

(誠之進…っ)

 右近はわずかに柳眉を寄せた。

 今、何とか言い繕ったとしても、いずれこの話はふたたび誠之進の耳に入るだろう。ならば観念して自ら惣一郎とのことを打ち明けるのか。

(いかがする…)

 右近が息を詰めた気配を感じ取ったのか、誠之進の眦が険しくなった。
「まさか…まことではあるまいな?!」
「…今の話がか」
「右近、どうなのだ!?」
声を荒げた誠之進を、右近は言葉を忘れたように見つめていた。

 覚悟はしていたが、胸に疼痛が走る。

(そのように声を荒げるのは何ゆえじゃ?)

(貴公も三郎と契っているのだから、私が殿と夜を過ごしたとて、穢らわしいのなんのといわれる覚えはないぞ)

「右近…何とか云え」

(なにゆえ…そのような恐ろしい顔で私を睨む? まさか悋気のかけらなりとも…?)

 右近の胸底が、ほんのわずかに期待で震えた。

(今さらだ…)

 右近は懐紙でひと拭きするがごとく、女々しい感情をぬぐい去った。

 右近が揺れる思いを隠しつつ無表情に相対していると、遂には誠之進が震える声でたずねた。
「貴公…否定せぬのか?」
恐る恐る右近の表情を伺う誠之進に、
「…まことの話だ」
もはや致し方なしと、右近は半ば投げやりに小さく返した。

 誠之進は食い入るように右近を見つめている。
そこには非難も軽蔑もなかったが、まっすぐに向ってくる視線が胸に痛い。

(この期に及んで何が言いたいのか)

 誠之進の怒りと哀しみが入り交じった眼差しに、右近は苛立った。

 やがて誠之進は沈黙を破り、
「男同士で契るなど鳥肌がたつというた‥あれは偽りか?!」
腹の底から絞り出すような声音で問うた。
「貴公…いったいいつの話をしておる?」
「忘れたとは言わせぬぞ!」



つづく


「寒椿」3
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背景は「十五夜」さんからお借りしています。


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