三十一の巻
「寒椿」5




by 戸田采女

 誠之進があの日のことを覚えていた一一。

 十五歳の夏。内藤嶺次郎に待ち伏せされ、犯される寸でのところで誠之進に助けられた日、生涯友でいようと誓いあった日のことだ。

(そんな昔のことを、覚えていたのか…誠之進)

 突如として、甘酸っぱい懐かしさが胸にひろがった。

 区切りをつけたはずの十余年の月日が、誠之進のことを思うだけで幸せに包まれた少年の日が、脳裡に蘇ってしまう。
 
 記憶の残像はあまりに鮮明で、押し寄せる波のごとく右近を襲った。

(なれどっ…)

 それを両手で掴み、ねじ伏せ、懸命に記憶の淵に沈めようとする自分がいた。

(恋心は…美しいままに封印し、おまえの友としてこれからの長い時を生きると決めたのだ。もはや三郎のことも恨むまいと…。私の決心を乱してくれるな、誠之進)

 右近は丹田に力を込め、背筋を伸ばした。

(現在(いま)の私は…髪の一筋まで殿のもの)

 右近は小さく息をつくと、
「主人に望まれれば否も応もないであろう?」

 右近のひとことに、誠之進の端正な貌がひきつった。
「なんと…」
誠之進は言葉が続かず、ひたすら瞠目していたが、
「いつからだ…?」
「はて…確か、中屋敷の用人になった頃だったか…」
右近は薄絹をまとったような微笑を浮かべ、事もなげに答えた。

 またたくまに鳶色の瞳が熱い潤みを帯びた。
誠之進は奥歯を噛みしめ、小さく首を左右にふった。
「私が国許へ帰ったのをこれ幸いと…殿は貴公に無理を言うたのか?」
「そういうわけでは…」
「なれど貴公はとっくに成人しておるのだぞ? 前髪立ちの小姓ならまだしも、立派な成人男子に閨の勤めをせよとは…無礼ではないかっ?!」
「誠之進…」

(なにをそんなにむきになる…?
ならば聞くが、三郎は前髪だから抱いてもいいのか?
誠之進…貴公の言うことは筋が通らぬ…。)

 誠之進は精悍な眉を寄せ、
「我慢ならぬのだ」
吐き出すように言った。
「え?」
「渡り中間やよその家中の者までが、おまえのことを御物上がりの何のと…よた話のネタにされておるのだぞ!」
「捨ておけ…」
莫迦らしいと右近は小さく首を振ったが、
「勘定吟味役も江戸留守居役も、ひとえにおまえの力量を見込んで父や堀田様が推挙し、先の大殿が任じたもの…」
「誠之進…」
「私は…口惜しいのだっ!」
「誠之進」
「何ゆえおまえがあのような言葉で愚弄されねばならぬ!」
「もうよい…誠之進」
「容色を持って殿に取り入ったかのように…っ」

 右近は膝の上で静かに拳を握りしめた。

(誠之進が本気で怒っている…私のために)

 憤怒に燃える誠之進の双眸から右近は目が離せない。誠之進の怒りは友の名誉を慮ってのこと一一。右近の胸をひたひたと熱いものが満たした。

 恋の終わりがいかに残酷であっても、誠之進は今でもかけがえのない友だ。

(友であり、好敵手でもあった誠之進。私に本気で打ちかかり、負かそうとするのは…いつもおまえだけだった。殿と私のことを知っても軽蔑するどころか、まずは私の心を、体面を案じてくれている…)

 もはや三郎のことなどどうでもよい…。

 命より大切な、この絆だけは誰にも壊させはせぬ。

 右近は一度深く息をつくと、
「かたじけない…誠之進」
誠之進に向って深く首を垂れた。
「右近!?」
「貴公が私を案じてくれる気持…ようわかった」
「いや、それは…」
もどかしげに頭をふる誠之進に、
「私ももう女子で言うなら大年増。殿も早晩お飽きになるだろう。柳沢美濃守様を気取るわけではないが、そのうち側室か美童でも見繕ってさしあげねばならぬな…」
軽く鼻先で笑ってみせた。
「ばかなことを…っ」
「ともかく私のことは心配無用。貴公が目くじらをたてることはない」
「右近! おまえまさか…意にそまぬことを強いられているのではあるまいな?!」
それでも膝を乗り出して叫ぶ誠之進に、右近の心は揺れた。

(もうよい、誠之進。やめてくれ…)

 泡立つ胸の裡を隠し、右近は微笑を浮かべて小さく首を振った。
「それに昨今は代替わりの手続きで、留守居部屋は御用繁多ゆえ…中奥で夜を過ごしてはおらぬ。貴公に案じてもらわずともお役目に差し支えるようなことはない」
鼻歌でも歌うように流した右近だったが、
「夜を…過ごすだと?」
誠之進が苦々しく返した。
「誠之進…?」
誠之進は鳶色の瞳をかっと見開き、唇が震えていた。

「誠之進…いかがした?」

 ここへ来て、尋ねる右近の声もか細く震えた。

 誠之進は右近の前ににじり寄ると、両肩に手をかけた。
「おまえは…鳥肌がたつと言うたっ!」
「まだその話か?」
「誰ぞの慰みものにされるなど真っ平だ、と言うた!」
右近は激しく肩を揺すぶられ、
「せ、誠之進…っ?」
「あれは偽りか! 貴公が涙ながらにそう言うから…私はっ」


つづく


「寒椿」4「寒椿」6
青嵐・目次 | TOP


背景は「十五夜」さんからお借りしています。


Copyright © 2005 戸田采女
All rights reserved.