三十二の巻
『無題』2



by 戸田采女

2 誠之進

「おい…もう一本つけてくれ」

 その夜、誠之進は不忍池にほど近い、小料理屋というにはいささか下品な、煮売り酒屋の小座敷にいた。

「お侍様ぁ、それくらいでやめといたほうが…」
誠之進は懐から財布を取り出し、
「なに、案ずるな。金ならほらここに…」
畳の上にどんと放り投げた。

 ずしんと響く重たい音に、土間の卓で飲んでいた職人たちが、思わず伸び上がって座敷を覗き込んだ。

 誠之進は焦点の怪しくなった目で土間を見やり、職人たちに向って片頬で笑った。
「あっちの皆にも欲しいだけ飲ませてやれ。肴も適当にみつくろってな。それがしのおごりじゃ」
「しょうがないねえ…」
店の小女は小首をかしげながらも、とりあえず親爺に注文を伝える。

「旦那! ありがとうごぜえやすっ」
「剛毅だねえ」
「富くじにでもあたったかね?」

「ま、そんなところだ」
誠之進は口から出まかせを言うと、男たちは箸で卓を叩いて盛り上がった。
はやし立てる職人たちをよそに、誠之進は再び黙然と盃をあおった。


                    *

 右近が…殿の伽をしていた一一。

 本人の口から聞いてなお、誠之進は信じ難い思いで一杯だった。

 誠之進が卓の上に突っ伏すと、空の徳利がいくつか音をたてて倒れた。

「惣一郎様なら鳥肌はたたなかったわけか…」

 誠之進は思わず自嘲的に呟いていた。

 あれほど右近が厭うことはさせまい、誰にも汚させまいと、近づく者を片端から退けた自分は何だったのか。

(まるで道化よの…)

 誠之進が卓に突っ伏したままくすくす笑っていると、小女が新しい徳利を持ってきた。
「お侍さまあ…」
余程情けない有様なのか、小女はしきりに誠之進に構おうとする。
「よいからそこへ置いていけ」
誠之進は卓から身を起すと、心配顔の娘をやんわりと退けた。

 誠之進は手酌で盃を満たし、一気にあおった。

(伽をせよと言われれば…主君だから否も応もなかったのか?)

(されどいくら主君とはいえ…あの右近のことだ。嫌なら腹を切ってでも拒むだろう)

「ならば…やはり右近も殿を一一」
誠之進はふっと唇を歪めて笑った。

(慕っておるということか…)

 胸が焼けるのは、安酒のせいか、右近を惣一郎に奪われた口惜しさか一一。

 右近に焦がれて焦がれて、触れたくてたまらぬのを懸命に堪えた昔が蘇る。

 藩校時代、そして江戸詰めの頃。
誠之進は夢の中で何度も右近を汚した。
決して触れてはならぬと、己に禁忌をかせばかすほど、妄想は果てしなく広がった。
罪の意識にまみれて迎えた、数えきれぬほどの朝。

 夢の中、右近のしなやかな四肢は誠之進に絡みつき、吸い付くような膚がぴったりと寄り添ってくる。形の良い桜色の唇をそっと吸えば、右近は睫を震わせて甘い吐息を洩らす一一。

 この世の他の男には決して見せまいとした右近の姿だった。

 それを惣一郎は現実に目にし、その膚に触れ一一。

(右近は閨で…どのように抱かれるのだろう? 息づかいは…声は…?)

 惣一郎に貫かれ、乱れる右近の肢体を脳裡に描いた途端、誠之進の身体の奥から猛烈な嫉妬が噴き上げた。

(殿に命じられれば…何でもするのか?)

 歯の根が合わぬほどの口惜しさを、誠之進は懸命に堪えた。

 誠之進は一度深く息を吸い、己を保とうとした。

「親爺、勘定だ」
「へい〜」

                     *

 誠之進は財布から一分銀を無造作に掴んで取り出し、卓の上に置いた。
「あっちの兄さんがたの分も…これで足りるか?」
調理場から出てきた小太りの親爺が、銀貨を見て目玉をひん剥いた。
「た、足りるも何も…っ」
「ならば取っておけ」
釣りをもらうのも邪魔臭い。
今宵ばかりは倹約なぞくそくらえと、誠之進は鼻を鳴らした。

 誠之進は大刀をひっつかんで立ち上がると、無造作に落とし差しにした。もはや袴も皺だらけで、どこぞの無頼浪人のようじゃなと自嘲する。職人たちの感謝の声に送られ、誠之進は後ろ手に手を振ると、縄のれんをくぐり表に出た。

 さほどに金をばらまきたいなら、吉原へでも行けばよいものを…。もはやその気にもなれぬ、中途半端に真面目な自分を誠之進はわらった。

 春と呼ぶにはまだ早く、酔いが回った身体に夜風がしみた。思いのほかの明るさに空を仰げば、雲が切れ満月が皓々と輝いていた。一度大きく深呼吸すると、仄かな梅の香漂う夜気が、混濁した頭を多少なりともすっきりさせた。

 煮売り酒屋を出たのち、中屋敷へ続く湯島の切通しへと自然と足は向っていたが、誠之進は思い直したように湯島天神への道を下った。

 月明かりのもと、芳香を放つ白梅の脇を抜け、誠之進はゆっくりと参道を下った。昼間は揚弓場や芝居小屋で賑わう門前を過ぎ、さらにその先の小さな社まで来て、ようやく歩みを止めた。

 誠之進は拝殿の軒下へ入り、大刀を腰から外して縁側に座り込んだ。
胸底から大きく息を吐くと、
「何と言うざまじゃ…」
己の姿に呆れながらも、もはや丹田から力が抜け指一本動かす気力もない。

 目を閉じれば昼間の情景が、取りすがるような右近の眼差しが鮮やかに蘇る。 

 悋気も口惜しさも、なにを今さらだ。
三郎ぎみと契った私にその資格はない。
今宵は中屋敷へは帰るまい。
三郎ぎみが案じているだろうが、斯様な気持のままではとても御前には出られない。

 あのまま平岡仙之丞が呼びにこなければ、自分と右近はどうなっていただろう?

 平岡は三郎ぎみがお探しと申したが、結局、東の対に赴いてみれば居室はもぬけの空。平岡がなにゆえあのような偽りを申したかはわからぬが…。

 項を撫でる私の手に、うっとりと瞼を閉ざした右近。
すがるような眸で真正面から見つめられ、寸でのところで今の自分の立場を忘れかけた一一。
右近は私に何を言おうとしたのか?

 共に過ごした長い年月。

 あのような眼差しに出逢ったのは初めてではない。なれど私と目があった瞬間、右近はいつも薄絹をまとったような微笑を浮かべ、小むずかしい学問や政(まつりごと)の話を始めた。

 右近の切なげな眼差しは、自分の愚かな恋情のなせる技かと、私は秘かに溜息をつくのみだった。

 もしやと一縷の望みを抱きながらも、確かめるのが恐かった。

 否定されれば取り返しのつかぬことになりはしないかと…。

                       *

 誰もが一目置く強く、賢い右近。

 天才的な剣の腕に、十年にひとりの逸材と謳われた頭脳。

 そして誰もが目を奪われずにはいられない、白皙の美貌。

 少年の頃は、まことに花の香が匂いたつような、たおやかでありながら凛とした風情が若侍たちを夢中にさせた。

 なれど私が知っている右近はそれだけではない。

 ともに野をかけ森に分け入り、時には下帯一枚で川へ入ってどじょうや海老を捕った。嬉々として遊びに興じる無邪気な笑顔が今でも忘れられない。川原で捨て犬を見つければ、どうでも捨ておけぬ心根の優しさ。父を亡くした後、病弱な母や老僕を労りつつ、当主としての責任を小さな肩いっぱいに背負おうとしていた。

 私は大人びた物言いの裏に隠れた右近の心を知る、数少ない人間のひとりだった。
私もまだ半人前、十代の少年にすぎなかったが、右近の側にあり力になりたかった。
無論、私も右近の美しさに胸ときめかせた男のひとりだったが、決してそれだけではなかったのだ。

 もし自分があの頃、思いを打ち明け契ってくれと迫ったなら、右近は…?

 いや、同じことだ。あの頃の右近は言い寄られることを過敏なほど嫌がり、心底衆道を厭うていたはず。十代の頃の繊細な右近には、やはり肉の交わりなど受け入れがたかったろう。

 右近とは、どう転んでも念友にはなれなかったのだ。血を吐く思いであきらめたものを、何を今さら一一。

 右近への恋はとうの昔に終わったのだ。

 今の私には三郎ぎみがいる。このようなこと、考えるだけでも三郎ぎみへの裏切りだ。いい加減にせねばならぬな。



 信輝公拝領の『和泉守国負』の束を誠之進はきつく握りしめていた。亡き信輝公から三郎ぎみを託された自分が、この後に及んで何を揺れているのだ。

 そう懸命に言い聞かせながらも、誠之進の懊悩は深まるばかりだった。ふたたび月を仰いで溜息を洩らす。


 それでも…。恋い慕い続けた年月の為せる技か。
殿に抱かれるおまえを瞼の裏に描けば、腹が煮えて気が狂いそうじゃ。
呆れた大莫迦ものと笑うてくれ。
斯様な思いをするくらいなら、江戸で、殿に奪われる前に、無理矢理にでも抱いてしまえばよかった…。
そうしたらおまえは?
私を拒んだか?
それとも一一。


 たった数刻前、熱い潤みを帯び、すがるように見つめてきた右近の眼差しが、その答えのようにも思えた。   

 とくんと誠之進の胸が鳴った。

「まさか一一」

 項を撫でる誠之進の手に、右近はうっとりと瞼を閉ざした。

 唇が微かに震え、喉元までせりあがった感情を必死に堪えているかのようだった。

 嫌悪では…なかったと思う。

 平岡仙之丞が私を呼びに来て、部屋を出ていかざるをえなくなったときも。

 追い縋ろうとする右近の気配を全身で感じた。

 『男同士で契るなど鳥肌がたつ』のひとことに、長い間縛られてきた誠之進だったが一一。

(もしやおまえは…私のことをっ)

 そう思って眺めれば、これまでの右近の行動のひとつひとつが別の意味を持ってくる。

 三郎への傾倒を深める自分に意見したのも。

 三郎は他藩へ養子に行くべきと、冷酷なほどに主張したのも。

(だとすれば…私はこの長い歳月、おまえの心の奥底を何一つ理解せぬまま一一)

 そして内藤帯刀の藩金横領の一件が落着したのち、ただちに勘定吟味役を辞し、病の母を残してまでひとり江戸へ発ったのも。

(三郎ぎみと契った私の側にはおられなんだのか)

 右近は自分と三郎の逢瀬すらその目で見たのだ。

 狭い茶室であられもない姿で抱き合う我らを。

『我が子同然に育てた若君と、契ってしまう男など…』

 あの一言に込められた慟哭を、自分はつゆほども気付かず一一。

「なんということだ…っ」

 血も凍るような思いで誠之進は卒然と悟った。

 時間と距離をおかねば正気ではいられぬほど、右近を深く傷つけた。

「なれどおまえは衆道など御免こうむると、あれ程言うていたではないかっ‥」

 若く未熟な自分は、右近の言葉の裏の本音を見抜くこともできず一一。

「私はおまえに何ということをっ‥」
誠之進は喉声に叫ぶと、縁側を拳で叩いた。
何度も何度も、皮が裂けそうなほどの力を込めて、誠之進は拳を打ち付けた。

 右近をあらゆる苦しみから守るのだと、あれほど固く心に誓いながら、もっとも手酷いやり方で右近を奈落へ突き落とした。

 誰よりも右近を想っていたはずの、この自分が一一。

 後悔の涙がとめどなく頬を伝った。

 二十歳のとき、亡き大殿の命を受け、三郎ぎみの守役となるべく帰国した。あの時が、すべての始まりと終わりだったのか。

 自分は三郎ぎみと出逢い、江戸に残った右近には…殿の手がついた。

(これは…おまえの想いに気付いてやれなかった、私への報いか)

 あれから七年。今、右近はすべてを腹の中に納め、

『三郎のことは…もういい。貴公の失脚を恐れてあれこれ諫言したが…。殿がお許しになった以上、もはや内藤にとってこの切り札は一文の価値もなし』

『出奔などという無茶は…もう二度としないでくれ…』

 変わらぬ友情を誓い、ふたりで藩政の舵取りをと、澄んだ眸で少年の日の理想を語り続ける。


 なぜそのようなことが言える?
おまえは菩薩か?
人ならば、恋敵の三郎ぎみが憎かろう。
おまえの想いに気付いてやれず、あまつさえ他人と契った私が恨めしゅうはないのか?

 それとも…。

 おまえの私への恋も、三郎ぎみへの嫉妬も、もはや過去のものなのか。
苦悩の末、おまえなりの決着をつけたというのなら一一。
まことに今のおまえは身も心も殿のものだというのなら一一。

 私の出る幕ではない…。


 恋の嵐は去り、残ったのは断金の友情と右近に言われれば、自分は安堵するのか、狂うような喪失感におそわれるのか。

 誠之進はその答えを知っていた。

 なれどふたりがふたりとも別の相手と契った今、いかに心が揺れようが、誠之進と右近が恋を語るわけにはいかなかった。

(右近…っ)

 ただ今は沁み込むような月明かりの下、深すぎる想いゆえにすれ違った日々を思い、誠之進は涙した。


無題 了


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