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右近が中屋敷を訪なった翌日、誠之進が風邪を引きこんだ。
「うーん、なれど三郎ぎみ、せっかく平岡様が誘って下さっているのだし…」
「誠之進がふせっておるのに、遊山など気が進まぬのじゃ」
なかなか首をたてに振らない三郎に、
「ふせっておると申されますが、あれは自業自得…もごもご」
源蔵はぶつぶつと不平を洩らした。
一昨日、誠之進は明け方近くなって中屋敷に戻ってきた。
それも源蔵の長屋へだ。
戸を叩く音に眠い目をこすりながら源蔵が誰何すると、
「私だ。源蔵」
あろうことか誠之進の声がする。
何事かと土間へ降りて戸を開ければ、誠之進がどっと中へ倒れこんできた。
「うわっ…酒くさっ…」
思わず叫んでしまうほど、誠之進はおびただしく酒気を帯びていた。
とりあえず肩を支えて板の間まで連れてくると、
「どうしたんです、誠之進さまっ? 夕方お出かけになったきりなんで、皆心配しておりましたが」
「すまぬっ…。しばらくここで休ませてくれぬか?」
「それはいいですけど…」
源蔵としては理由を聞きたかったが、誠之進は既に六尺近い身体を板の間に横たえていた。
「…いったいどうなさったのだろう」
源蔵はかい巻をかけてやりながら、訝しげに溜息をついた。
誠之進がここまで痛飲するのは珍しい。
「たしかに、この姿で三郎ぎみの前には出られませんよね…」
仔細は起きてからじっくり聞こうと思い、源蔵はとりあえず誠之進に恩を売った。
ところがである。昼前、誠之進は酔いをさまして三郎の御前にあがったが、午後になって悪寒を訴え始めた。
酔いつぶれてどこかで夜明かしなど、およそ誠之進らしくはなかったが、『この季節、そんな真似をして風邪をひかないわけがない』と源蔵は冷たいものだった。
『自業自得』とはそういうことだ。
明日はお稲荷さんの初午の祭りで、平岡仙之丞が皆で飛鳥山の王子稲荷に参ろうというのだ。源蔵は噂にきく扇屋の『釜焼き玉子』が食べてみたい。夜遊びが過ぎた挙句、風邪で寝ている誠之進など放っておけばよいのにと、頬を膨らませた。
「のう、倫太郎、おまえからも三郎ぎみに申し上げてくれ」
「お、俺が?」
「おまえも楽しみにしているのだろう?」
「釜焼き玉子をか?」
「違う。上屋敷からのお供をじゃ」
「げ、源蔵っ…」
倫太郎の浅黒い顔が、赤黒く染まった。
「倫太郎…なにごとじゃ」
小首をかしげる三郎に、
「い、いえ、大事ありませぬ」
倫太郎は深呼吸して頬をひきしめた。
「ともかく…医師も薬湯を飲んで安静にしておれば、数日でようなると申しております。三郎ぎみが始終お側におられずとも、誠之進様はゆるりと回復されるでしょう」
「なれど…」
「そうですよ。せっかくの平岡様の厚意を無にしちゃいけません。平岡様の厚意、これすなわち兄上様のおはからいですぞ、三郎ぎみ」
源蔵は三郎がこの言葉に弱いのを心得ている。
如何と、源蔵が目をくりくりさせて三郎を見つめると、
「…わかった」
溜息混じりに三郎が折れた。
源蔵は『釜焼き玉子』に思いをはせ、倫太郎は上屋敷のお小姓が稲荷参詣に加わるのか、期待に胸膨らませるのだった。
*
鬼のかく乱と源蔵に笑われた。
風邪で寝込むなどいったい何年ぶりだろう。節々が熱のせいで痛み、喉もひりつくようだった。
(これでは身動きがとれぬな…)
誠之進は諦め混じりに胸の中で呟いた。
それで良いのかもしれない。今は、何も考えぬほうがよい。自分の心も身体も意外に柔にできていたのだなと、誠之進は苦笑を洩らした。信輝公から謹慎処分を受け切腹を覚悟したときでさえ、これほど心がくじけはしなかった。あの時はむしろ気が張っていたから己を保てたのやもしれぬ。
薬湯のせいだろうか。うつらうつらしかけたところへ、襖の開く音が聞こえた。畳の上を歩く足音がする。誰かが枕元もとに歩み寄り、静かに座る気配がした。すっかりぬるくなってしまった手拭いが誠之進の額から取り去られ、手桶の中で水を絞る音が続いた。
誰かが誠之進の上に屈みこみ、額に冷たい手拭いをのせた。心地良さに薄目を開ければ、小豆色の小紋の小袖が視界に入った。
(三郎ぎみっ…)
誠之進は思わず固く目を閉じた。
三郎への後ろめたさから、目を開けることができなかった。
「誠之進…」
三郎に名を呼ばれたが、誠之進は狸寝入りを決めこんだ。
「明日、皆で王子稲荷へ出かけることになった」
三郎は独白のように続ける。
誠之進はそのまま眸を閉ざし続けた。
「そなたが具合の悪いときに、正直気が進まぬのだが…」
三郎はふっと溜息をついて続けた。
「兄上のおはからいのようなのでな。それに源蔵も倫太郎、供の者たちも退屈しておる。私が行かねば皆ががっかりする…」
最後は声に笑いを滲ませた。
「朝早く出て、夜には戻ってくる。そなたは一日ゆるりと休むがよい」
誠之進の瞼の下でじわりと熱いものが滲んだ。
三郎はしばし無言で誠之進の傍らに座っていたが、やがて静かに立ち上がり部屋を後にした。
襖の閉まる音を聞き届けたのち、誠之進は目を開けた。
(三郎ぎみ…っ)
熱いものがこめかみを伝い、天井の木目が大きく歪んで見えた。
*
翌日、誠之進の熱はあらかた引き、咳は残っているものの一両日中に床払いしてもよいと医師に言われた。三郎や近習の者たちは、平岡仙之丞に連れられて王子稲荷へ出かけている。屋敷の中は一日中ひっそりと静まり返っていた。午睡から目覚めた誠之進は夜具の上に端座し、薬湯をすすりながら、ひとり静かに考えごとをしていた。
信輝公生前の藩主交代に際し、江戸藩邸ではすべてが穏便に運んだ。なれど父・主膳が書状で示唆したように、国元の事情はいささか異なる。表立って異を唱えるものは出ておらぬが、洩れ聞こえてくる惣一郎の派手な暮らしぶりにつき、中級以下の藩士は決して良い感情を持っていない。
国許の藩士が三郎ぎみ擁立を強く訴える…。
あり得ぬことではなかった。
一般的に代替わりの時期は何かと騒乱が起こりやすい。それを見越して幕府隠密も高山領内に潜入しているはず。藩士たちが騒乱など起しては、それこそ御家の一大事。江戸から姿を消した内藤の動向も気になるところだ。
かくも重大な局面において、女々しく悩んでいる暇はないはずだった。
薬湯を飲み終えた誠之進は、ことりと茶碗を盆に戻した。
*
三郎ぎみの分家は殿も快諾してくださった。信輝公がよほど頼んでゆかれたのだろう…。右近のことはともかく、この件では殿を信頼してお任せできるとおもう。三郎ぎみを見る殿の目は優しかった。
雪が解け次第、我らは早々に国許に帰り、領内の様子に目を光らせることだ。それが次の執政たる自分のなすべきこと一一。
これ以上…私は右近の側にいてはならぬ。
昔…私が右近に恋いこがれたように、もしや右近も一一。
なれどそれがまことだとしても、我らふたり、もはや後戻りできぬところへ来ておる。
お互いの気持を確かめあったりしてはならぬのだ。
あの時、貴公が言おうとしたこと…。
聞いてやらねばと思う一方で、面と向って互いの思いを打ち明ければ、昔話で済ませることができるかどうか。貴公にあのような眸で見つめられれば、今度こそ踏み止まる自信はない。
恋心と紙一重の友情。
その微妙な距離を保ちつつ、終生貴公の友でありたいと願っていた一一。
いかに貴公への想いが懐かしく、変わらぬ磁力で私を惹き付けるとしても。
今の私は身も心も三郎ぎみに捧げておる。
寸分たりとも迷いがあってはならぬのだ。
貴公とて、斯程のご寵愛、お引き立てを賜りながら、今さら殿を裏切れまい。
それゆえ、貴公には会えぬ。
かつて死ぬほど恋焦がれた貴公に、万にひとつ、今でも好きだなどと言われてしまえば一一。
そこまで考えて誠之進は微苦笑を浮かべた。
まさか。
『それは…いくらなんでも自惚れが過ぎようぞ』
誠之進は頭を振って愚かな思念を追い払った。
つづく
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