三十三の巻
「秘め事」2




by 戸田采女

 右近が中屋敷に誠之進を訪ねてから一週間が過ぎた。

 亡き大殿の四十九日も終わり、藩邸では何もかもが一段落した感があった。

 明日十五日は月並登城日だ。特別な儀式となれば、装束や諸々の事の確認をとらねばならぬが、定例の登城日の要領は既に惣一郎も心得ており、あらためて打ち合わせることもない。お召しがない限りこちらから出向かずともよいかと、右近は留守居部屋でぼんやりと書類を眺めていた。

 文机の前に端座し、文字を目で追うふりをして時をつぶす。

 あれから一週間。気がつけば誠之進のことを考えている。まるで初恋の昔に戻ってしまったかのように、寝ても覚めてもとはまさにこのことだった。

 三郎に出会う前、誠之進は私のことを恋しく思っていたのやもしれぬ…。

 ならば、もし三郎がいなければ、誠之進は私のことを想い続けてくれたのか?

 もしも三郎がいなければ。

 考えるのは無益だとわかっている。

 なれど、どうしても確かめたいのだ。

 今さら誠之進を三郎から奪おうというのではない。

 あの日、仙之丞に邪魔をされ、誠之進の口からは何も決定的な言葉を引き出せなかった。自分もとうとう想いを告げることができず、ただ見つめあって終わってしまった。

 あの会話に決着をつけたいだけだ。

 かつて私を愛しく思っていたと。

 その言葉が誠之進の口から聞けたなら、自分は今の状況、全てを納得して受け入れるだろう。

 誠之進がもはや三郎のものであることも。

 自分が生涯惣一郎の側にあることも。

 そして願わくは、ただ一度きりでいい。

 誠之進と…。


 文机の前で時折熱に浮かされたような目をしながらも、表面上は恙無く執務をこなす右近だった。                      




 二月十五日の江戸城登城日。

 右近は思わぬ失策を犯した。

 総登城の日といえども、三百諸侯が同時刻に大手門前に集まるわけではない。大名、旗本ごとに登城する城門が決まっており、時間差で入城する決まりだ。

 無論、いかに心乱れようと場所を間違えるような右近ではなかったが、途中で水戸殿の行列と鉢合わせしかけたのが痛かった。普段なら起こり得ないことである。先駆けの者から知らせをうけ、咄嗟に脇道へと迂回したのはよかったが、おかげで登城時間に遅れる仕儀となった。

 高山藩の行列が指定の城門に到着したとき、そこには高山藩の次に入城するはずの福山藩が既に到着していた。城門の周囲は一時供回りの者で溢れかえった。

 相手方が同じ詰めの間の藩で、藩主同士も心易い間柄だったのが幸いした。福山藩の留守居役の機転のおかげもあり、双方譲り合いつつ、ふたりの藩主と数名の従者は何事もなかったかのように談笑しながら御門内へと入っていった。

 水戸殿の行列との遭遇は不測の事態であるし、相手方の留守居役に上手に庇われたため、右近のあからさまな失態とはならなかったが、本人はもちろん、留守居部屋の部下、そして藩主の惣一郎にも事の重大さはわかっていた。城門でかちあった相手方が当藩の不調法をとがめれば、藩主も先方にたいして陳謝せねばならなかった。

 下城後、行列が藩邸へ戻ったのち、右近は添役の小野田とともに藩主の居室へ呼ばれた。

 無論、お叱りは覚悟していたが一一。

 側に控える小姓たちが驚くほど、惣一郎は右近を厳しく叱責した。

 市中で大名行列同士が出会うのは稀なことではない。通常はお互いに片道を空けて、それ相応の礼を尽くしてすれ違えば良かったが、相手が御三家の場合はいささか厄介である。道を空けるだけでなく、脇によって行列の通過を待たねばならないのだ。藩主も乗り物を降りて礼を尽くさなければならなかった。

 もしくは此度のように、気付いた時点で脇道を選ぶか、である。

 その場に留まって水戸殿の行列を見送るか、整然と脇道へ迂回するか。到着までにかかる時間を鑑みれば、いずれがまことに正しい判断であったかと、惣一郎は右近を詰問した。

 確かに水戸殿の行列とかちあった四ツ辻は、御城からそう遠くない地点だった。あのまま水戸殿の行列を見送り後に続いたほうが、到着は早かったやもしれぬ。

「余が駕籠を降りて、水戸殿に頭を下げることなど雑作もない」
「はっ…」
「城門前で見苦しい仕儀にいたるよりはな」
「仰せの通りにござります…」

 右近は平伏し、神妙に惣一郎の言葉に耳を傾けていた。

 今日に始まったことではなく、最近の自分の状態は右近自身が一番よくわかっていた。うわべは万事遺漏なく勤めているようで、緊急時の判断力は明らかに鈍っていた。

「右近。堀田の爺ももうじき藩邸を出ると申しておる」
「はっ…」
「爺がおる間にできる限りのことを教わっておけ」
「仰せの通りにいたします」
惣一郎は斜後ろに控える添役に視線を移すと、
「小野田」
「はっ」
「補佐とはいえ、そなたの方が留守居部屋での経験は長い」
「はっ」
「右近が判断しかねる場合は、遠慮なく進言せよ」
「かしこまりました」
小野田は深い声音で応じ、平伏した。

 惣一郎は言うだけのことを言うと、二人の留守居役を解放した。




 現在の添役は堀田の隠居前から留守居部屋に勤めている男で、名を小野田半十郎といった。
年の頃は三十半ば。藩の外交官というよりは、馬廻りが似合いそうな堂々たる体躯だ。右近が留守居役に就任するとき、堀田が小野田を添役に推挙し、藩主の惣一郎もこれを認めた。

 右近と小野田は中奥から下がり、留守居役の住居や長屋のある一角へと向っていた。表御殿の執務はそろそろ終わる時刻である。まだ陽が高いこともあり、右近は今日のうちに福山藩邸まで謝罪に出かけるつもりだった。

 手土産は何が適当かと悩んでいた右近に、小野田が呑気な口調で語りかけた。
「しかし、殿は櫻田様にはもっと甘いかと思うておりましたが…意外でござった」
揶揄するような響きに腹がたったが、此度は完全に自分の失態だ。
右近は忸怩たる思いで首をたれた。
「まこと…面目なきことにござる」
右近がしくじれば、家格を無視して右近を留守居役に抜擢した、惣一郎や堀田の顔を潰すことになる。
小野田は軽く鼻を鳴らし、
「猿も木から落ちるということですな」
右近と目を合わせた。
「まあ大事には至りませなんだゆえ」
嫌味というよりは単なる軽口に聞こえたが、右近は黙って唇をかみしめた。

 小野田はそれ以上しつこく絡もうとはせず、話題をお役目のことに戻した。
「福山藩邸へそれがしも同道いたしましょうか?」
「いや、私ひとりでよい」
「わかりました。では、これにてお長屋へ戻らせていただきます」
「うむ。御苦労であった」
「御免」

 大柄な部下の背を見送りながら、右近は深い溜息をついた。




 福山藩邸に謝罪にいった右近が帰邸したのは、戌の刻(午後八時)を過ぎた頃だった。役宅に戻ってみれば、酒と肴が用意され、堀田が老僕と無駄話をしながら右近を待っていた。

 右近は差料を外して老僕に預け、
「堀田様…、まだお休みではなかったのですか?」
「これこれ、儂を年寄り扱いするでない。まだ宵の口ではないか」
「これは失礼つかまつりました」
右近は薄く微笑んだが、すぐに真顔に戻り堀田の前に正座した。

「本日の私の失態、すでにお聞き及びと思いまするが…」
堀田は首肯すると、
「うむ、殿がここまで愚痴りに参られた」
にっと笑って右近の前に盃を差し出した。
「なんと…面目次第もござりませぬ」
「まあ落ち着け」
右近は黙って盃を押し頂き、堀田が酒を満たした。

 堀田は皺だらけの目元を和ませ、
「あれは運が悪かった」
「は?」
「御三家の行列に出会うてしもうたら…小藩ならば、蜘蛛の子を散らすように脇道に逃げ込むくらいじゃからな」 
「堀田様…」
「なれど普通なら水戸様の行列が一ッ橋御門近くに現れるはずもない」
「私もそのあたり、不思議に思いましたが…」
「今後のためもある。いかなる理由で道を変更されたか、調べておく必要があるな」
「承知いたしました」
「ともかく。整然と迂回してお城まで辿りつくとは上出来ではないか?」
「なれど我が藩が遅れたせいで、福山藩には多大なご迷惑をおかけし…」
「斯様なことはたまに出来する。お互いさまゆえ、後の挨拶をきちんとしておけば大事ない」

「まこと…そのように考えてよろしいのでしょうか?」
堀田はくしゃりと顔を歪めて笑い、
「かちあった相手が福山藩でよかったがな」
自分の盃を右近の前に差し出した。
右近は酒器を手にとり堀田の盃を満たす。
堀田はゆっくりと盃を傾け、
「じゃがな、右近殿」
ひたと右近に目をあてた。
「周囲の目もある。藩士の中には殿のご寵愛深い御事(おこと)を内心妬んでおるものは少なくない」
「…それは、承知しておりまする」
「さほど目くじらをたてる事件ではなかったが、殿からさぞやきついお叱りがあったろう」
「はい、それは」
右近は神妙に首を垂れた。
堀田は再び右近に盃をとるように促し、
「ふふっ…儂がな、前々から入れ知恵をしておいたゆえ」
「入れ知恵?」
「家臣に対しては微塵も依怙(えこ)の沙汰なく、信賞必罰で望むべしとな」
「はい…」
右近は盃を手にしたまま一瞬小首をかしげた。
堀田は悪戯っぽく目を光らせると、
「周囲にそう思わせることが肝要じゃ」
「なるほど」
「殿もああ見えても根は素直なご気性ゆえ、教えたことはよう守る…」
堀田は喉を鳴らしておかしそうに笑った。
右近は苦笑するばかりだ。

 堀田は右近の盃を満たし、しみじみと語った。
「儂はまもなく藩邸を去る」
右近は黙って首肯した。
「切れ者と呼ばれても、御事とて人の子。時に思い悩むこともあろう…」
「堀田様…っ」
「この老いぼれと話がしたくば、何時でも巣鴨へ訪ねてまいれ」
右近の両目に熱いものが込み上げた。
「お心づかい…かたじけのう存じます」

 惣一郎が堀田を爺と慕うように、右近もこの重臣を敬愛していた。男親を早くに亡くした右近にとって、国許の溝口主膳が親代わりなら、堀田はまことの祖父のようでもある。

「殿がな、役宅に戻ってひと休みしたら、中奥に顔を出すようにと」
「…かしこまりました」
「急ぐことはないとの仰せじゃ。御事、夕餉はまだであろう。軽く菜を腹に納めていけ」
「はい」
「煮染もうまいが、こちらの鮗(このしろ)の粟漬けがな、絶品じゃ」
右近は眸を潤ませたまま、素直に箸をとった。

 役宅で堀田と斯様な時間が持てるのもあと僅かなのだ。右近は堀田と交わす言葉のひとつひとつを大切に胸刻み付けた。




 一対一で惣一郎と対面するのは辛いものがあったが、お召しとあらば致し方ない。

 右近が中奥へ伺候したとき、惣一郎は既に寝所にあった。小姓が右近が来たことを告げると、惣一郎は寝巻姿で居間へと出てきた。

 右近は御前で深々と一礼した。
「お召しとうかがいましたが…」
「うむ…」
惣一郎はうなずくと、目顔で小姓たちを下がらせた。

 ふたりきりになると、右近は改めて惣一郎の前に平伏した。
「本日は殿にいらざる御心配をおかけしましたこと、重ねてお詫び申し上げます」
「あの件はもうよい。言うことは言うた」
「なれど…」
「福山藩邸まで謝りにいってきたのであろう?」
惣一郎の声が暖かみを帯びた。
「はい」
「それで十分じゃ」
「殿…」
「御苦労であった」
惣一郎はちいさく呟くと、しばらく脇息に肘を預けてあらぬ方角を眺めていた。 

「右近」
「はい」
「今宵はこちらで過ごせ」

 右近ははっと面をあげた。
「なれど…」
「何じゃ」
惣一郎と目が会うと、右近の胸中にじわりと後ろめたさが広がった。

(今宵は…お許しくださりませっ)

 右近は咄嗟に、
「先刻福山藩邸から戻ったばかりで、まだ湯をつこうておりませぬ」
苦しい言い訳をひねりだした。

 右近がうつむいたまま身を固くしていると、惣一郎のふっと笑う気配が伝わった。
「登城したの日の夜は…そういう約束ではなかったか?」
約束などした覚えはなかったが、右近には惣一郎を拒みきることもできない。

 惣一郎の優しさが、今は針のように胸に突き刺さる。

 包み込まれる心地よさも、今は真綿で締めるような息苦しさに変わる。

 衣擦れの音とともに惣一郎が立ち上がり、上段の間から降りて来た。
右近の背後に回って膝まずき、後ろから被いかぶさるように抱きすくめてきた。

「殿っ…なりませぬ」

 今の自分は惣一郎の腕に抱かれる資格がない。まことの理由は本日の失態ではなく一一。

「これは…罰ではないぞ」
囁きながら惣一郎が右近の項に唇を這わせた。
「わかって…わかっておりまするが、どうか今宵は…」

 わかっているからこそ、今触れられるのは辛すぎた。

 小さく首を振る右近の小袖の衿を、惣一郎の両手がくつろげた。
「殿っ…」
もはや聞き入れられぬとわかっていたが、右近は惣一郎の手首を握って止めようとした。

 惣一郎は右近の手をやんわりと振りきり、袷から片手を差し入れた。
「湯なら寝所脇の湯殿で一緒につかおうぞ」
「そのようなことっ…」
とんでもないと、右近は激しく首を振った。
「私は藩主だ」
乾いた掌が右近の胸を撫でさする。
「殿…っ」
「誰にも文句はいわせぬ」


つづく




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イラストは「十五夜」さんからお借りしています。


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