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時は少し戻る。
昨秋、主人の内藤帯刀が大坂へ発ったのち、その命を受けた玄海は、庭師に身をやつして藩邸奥に巧みに出入りしていた。両替屋の手代『為吉』は天満屋の寮を引き払った瞬間にこの世から消えた。
玄海は秘かにお牧の方改め宝寿院の庇護をうけていた。主人・帯刀から宝寿院に文が送られ、『何卒、この者をお心のままにお使いくださりませ』と、いわば玄海を宝寿院に貸し出したような形なっている。
玄海はお方様の御用を勤めながら、無論、裏では帯刀の意志を受けて暗躍している。
信輝公御不快の事態は帯刀主従にとって諸刃の剣だった。
信輝公万一の場合、今、嫡子・惣一郎が藩主の座については、己が藩政に返り咲く機会を失うのではと帯刀は危惧した。惣一郎の知恵袋は帯刀に真っ向から敵対する櫻田右近だ。国許では溝口誠之進の追い落としに失敗し、その父・主膳は依然として国許の政務を掌握している。江戸で右近が惣一郎の側近として力を得れば、まさに溝口家と右近の双方から挟撃され、帯刀の藩政への復帰などとても望めまい。
一方で、玄海は主人帯刀とは若干異なる考えを持っていた。
惣一郎と右近の主従関係。右近と溝口家の長年にわたる交誼。
一見磐石に見えながら、どちらも揺さぶる余地があると玄海は睨んでいた。
そして信輝公の病状を正確に掴むと同時に、いざという時に利用できる者の人選にも余念がなかった。
道伯の弟子の身元やひととなりを調べているうちに、平助という助手が岡場所の女郎を身請けすべく金をためているとの噂をきく。
金で動かせそうな人間はターゲットとしては最適だ。
玄海は藩邸出入りの植木屋として平助に近づいた。くだんの岡場所に客として出向き、偶然出会ったふりを装い平助を居酒屋に誘った。酒をすすめて話を聞くと、通い詰めている女郎は幼馴染みだという。
生活苦から家族のために身を売った。
平助は初恋の女を苦界から救いだしたい一心で、なけなしの金をもって秘かに賭場通いを続けていた。かくなる上はと、博打で五十両作る気でいたのだ。
そこまで聞いた玄海は内心高笑いしたいのを懸命に堪えた。
まさしく、これ以上は望めぬほどのカモだった。
植木屋『利吉』に化けた玄海は、次第に話し相手として平助の心をつかむ。
そして宝寿院から『殿様を国許へ返すな』と命じられたとき…。
玄海は主人帯刀の指示を仰がず、独断で信輝公のお命を奪い奉ることに決めた。
手駒はもちろん、平助である。
「おいおい、何も殿様の命を取ろうってんじゃない」
「いやだ、道伯先生の目を盗んで薬をすり替えるなどっ」
「お膳立てはこっちでやるから安心してくれ。なに、何となく体調がおもわしくない、長旅などできぬくらいに弱れば十分だ」
「し、しかし殿様は今、『狐の手袋』で生き長らえているようなもの。薬をかえるなど危険きわまりない!」
「なに、ちょっと量を減らしてもらって、薬の効き目が弱れば上出来よ」
「私にはとてもそのような匙加減はできないよ!」
「なら、こっちの医師に薬の調合はさせよう。あんたはそれを殿様に差し上げてくれればいいんだ」
「無理だ! 殿様のお薬はいつも道伯先生みずから一一」
「段取りは俺のほうでつける」
「利助さん…っ」
「平助さん、あんた五十両がほしくはないのか?」
「それはっ」
「金があれば、あんたの大切な女を救ってやれるんだぜ?」
「お、おりん…」
「おまえと所帯を持つ日を夢見て、それだけを心の支えに生きているんだろう?」
「うううっ…」
「心配するな。誓って、殿様のお命を狙うなどという物騒な話しじゃねえ。さる身分の高いお方がお望みなのだ」
「身分の高いお方?」
「殿様にお国入りしてほしくないんだと。ずっと江戸表にいてほしいとな…」
そして一一。
玄海の企てはまんまと成功し、信輝公は二度と国許の土を踏むことはなく、高山藩は惣一郎の代を迎えた。玄海は既に第二幕の筋書きを考えている。
玄海は過日、天井裏から盗み見た右近の痴態を思いだしていた。
(ほれ、恋しい男に抱かれたくてたまらぬのだろう?)
甘い呻き声をあげながら身悶える姿に、玄海もまた劣情を刺激された。
(殿様の寵愛を一身に受け、江戸屋敷の重臣の列に加わっておきながら。いやはや恐れ多いことよのう…)
玄海は目を細め、つっと上唇を舐めた。
(かくなる上は…逆上した殿様が寵臣をお手討ち、もしくは寵臣を寝取った男と事を構えるもよし)
(どうでもふたりの逢瀬、実現させねばならぬな)
(そして最後は骨肉の御家騒動じゃ…)
玄海は腹の底から陰湿な笑いを洩らした。
*
今宵玄海は、池の端、中屋敷の東の対に潜んでいた。
先日、中屋敷から若侍が右近を訪ね、書状を持ち帰ったことを知った。玄海は宝寿院の庇護をうけ、庭師として秘かに藩邸への出入りを始めて以来、表の下男・下女を幾人か金で手なずけ、秘かに右近の動静には目を光らせていた。
書状を受けとった後の右近の昂揚した様子から、誠之進からの文に間違いはなさそうだ。だが右近が用心深く読むなり火鉢で焼いてしまったので、その内容はわからず終いであった。
(恋文なら燃やすはずはなかろうな…)
玄海は苦笑した。
(となれば…役向きの話か、彼奴らがこそこそ動いている『探索』とやらの経過か)
百戦錬磨の忍びは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
此度は次席家老の藩金流用とはわけが違う。
ふたりが首尾よく真相を突き止めたにせよ、奥方が病の床にある藩主を毒殺したなどという醜聞、何としてでも闇に葬らねばならぬはず。
御家の安泰を願うなら、涙を飲んで口をつぐむしかないのだ。
ゆえに玄海が今右近の動きを探るのは、誠之進と右近の探索を阻止したいというよりは、下世話な興味のほうが勝っていた。
玄海は右近から誠之進への返書の内容を確かめるべく、中屋敷に忍び込んだ。上屋敷に比べて警備は格段に甘く、闇に紛れて庭へ入り込むなど雑作もないことであった。
ちょうど夕餉どきで、三郎主従は打ち揃って広間で膳を囲んでいる。和やかな談笑を遠くに聞きながら、玄海は渡殿の奥にある誠之進の部屋へ忍びこんだ。主人不在の部屋は、当然火の気も灯りもない。
(さて、右近殿は貴殿に何と言うてきたのかな?)
玄海は暗闇のなか、迷わず違い棚の手文庫を目指した。蓋をあけると中には幾分かの金子(きんす)と書状があった。玄海は書状をを掴むと廊下へと出た。人気のないことを確かめ、掛け行灯の下で手早く書状を広げて読む。
短い文面に、右近の覚悟が見てとれた。
(何と…逢い引きの誘いか? 不忠者めが…)
玄海はほくそ笑みながら書状をたたむと、ふたたび誠之進の部屋へ戻り書状を手文庫にしまった。誰に見とがめられることもなく、一切の痕跡も残さず玄海は中屋敷を後にした。
*
亥の刻(午後十時)。
その日最後の三郎への挨拶を終え、誠之進は自室に戻った。行灯に火を入れ部屋がほの明るくなると、誠之進は夜具を敷き寝巻に着替えた。
就寝前、敷布の上に端座し、誠之進は沈思におちていた。
右近が誠之進を舟宿へ呼びだしたのは、明日、申の下刻(午後五時)。誠之進は行くべきか踏み止まるべきか、未だ心を決めかねていた。
斯様な、逢い引きまがいの形で右近と会うてはならぬ…。
なれど、あの右近がここまでやるとは…もはや切羽詰まっておるに違いない。
決して契ることなど許されぬが…、茶屋で待ちぼうけをくらわすなど、そのような酷いことはできぬ。
行って…話を聞いてやらねば。
思考はいつもここで堂々回りだったが、
「いや、違う」
誠之進は突然声に出して呟いた。
右近の思いの丈を聞いてやることもだが、まずは己の正直な心を語るべきではないか。
今度こそ正面から右近の瞳を見て伝えるのだ。
十四の時から右近に恋焦がれていたこと。
右近の美しさに惹かれ時に劣情を覚えながらも、どれほど右近を大切に思い友として敬ってきたかを。
『水月』のような場所に自分を呼び出したからには、右近は枕を交わすことを望んでいるのやもしれぬ。だがそれを心配するのは二の次だ。
右近が縋るような瞳で問いかけてきたこと、私の右近への想いを、今度こそ言葉にして伝えよう…。
「やはり逃げてはならぬ」
誠之進は薄闇の中、瞼を閉じて首肯した。
秘め事 了
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