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日本橋の舟宿『水月』の筋向かいに茶見世があった。
駕籠かきの一団が床几に腰かけて、団子を頬張っている。そろそろ昼間の逢瀬を楽しんだ男女が家路につく時刻だ。それを目当てに茶見世にたむろしているのだ。
誠之進と右近が舟宿で密会することを知った玄海は、藩邸から右近の後をつけてきた。今日は小間物屋の扮装である。駕籠かきに混じってのんびりと茶を喫しながら、さていかにして『水月』に忍び込もうかと、思案しているのだった。
右近は四半刻(三十分)も前からやってきて、二階の窓辺に腰かけて外を眺めている。浜風を頬に受けながら、遠く江戸湾に視線を投げたかと思えば、舟宿へ至る道や渡し場への人の出入りを、期待をこめた眼差しで追っている。
***
(誠之進は来てくれるだろうか…)
中屋敷から遣わされた神原倫太郎に文をことづけて以来、誠之進から断りの手紙はきていない。律儀な誠之進のことだ。来ぬなら来ぬできっと連絡をよこすはず。それがないと言うことは…。
右近は祈るような気持で待ち続けた。
約束の申の下刻(午後五時)。時の鐘が鳴り終わった頃、右近はいよいよあたりに目を凝らした。
すると堀割り沿いに歩いてくる、塗笠を被った長身の武士が視界に入った。見まがうことなき姿に右近の胸が高鳴った。
(来てくれたのだな…誠之進)
頬が燃えるように熱かった。
まずはほっと胸をなで下ろす右近だった。
誠之進が店の前に立つと、右近は慌てて中へ引っ込み障子窓を閉めた。
小座敷に端座し、廊下の音に耳をすませる。
右近は『連れと大事な話がある』と離れを所望したが、生憎予約で詰まっていた。仕方なくニ階の端の続き部屋をとった。初めに離れを所望したことで女将が察したのか、続き部屋には枕屏風の陰にさりげなく夜具が用意されていた。
四半刻ほど前、部屋へ通された右近は、続き部屋を確認して苦笑した。確かにいきなり続き間に二つ枕では、誠之進もひいてしまうやもしれぬ。
いよいよ足音が近づき、
「お連れ様がお見えになりました」
女将の声とともに、襖が開いた。
大刀を手にした誠之進が姿を表し、女将が後に続いて入室した。女将は誠之進から『和泉守国負』を受け取り、刀掛けに納めた。
「待たせたか」
誠之進が伏目がちに口を開く。
「いや、私も先程着いたところだ」
右近は端座したまま呟いた。
緊張のあまり、なんとも無愛想な声が出た。
三十過ぎの粋な美人といった風情の女将は、さすがに数多の密会を見なれているのか、巧みに場の空気を読むようだ。淡々と膳の用意をし、「どうぞごゆっくり」と引き揚げた。
六畳の小体な空間に、右近は誠之進とふたりきりになった。
此度は自分でお膳立てしたこととはいえ、右近は呆れるほど余裕がない。
誠之進が着座するや、
「まずは一献…」
とりあえず酒を勧めた。
誠之進も軽くうなずき、自分の膳から盃を取り上げて掲げた。
(落ち着け…)
酒器を持つ手が震えぬよう、右近は一度深く息を吸い込んだ。
今日こそは積年の思いを誠之進に告げるのだと、決死の思いでここへ来た。今日の逢瀬が首尾でも不首尾でも、もはやこれ以上己の気持ちを偽れぬと、右近は覚悟を決めていた。
その後のことは頭にない。
「右近…本日の用向きは?」
「うむ」
「…過日の、中屋敷での話の続きか」
右近が答えるより先に、誠之進が眉をわずかに下げて薄く微笑んだ。
「ついでくれ」
酒器を持ったまま固まった右近に誠之進が促した。
「あ、すまぬ…」
満たされた盃を誠之進がゆっくりと傾けた。
「ここへ来るべきか否か、随分迷った」
「うむ…」
「斯様な場所で会うてはならぬと思いつつも、貴公をここで独り待たせるのは忍びなくてな」
慎重に言葉を選ぶ誠之進だった。
なれど右近もここで怯むつもりはない。
会話が途切れると、かもめの声が座敷の中までよく届いた。
さて次はどう出るかと思案したところ、
「覚えておるか、右近?」
いきなり誠之進に切り出され、右近は小首をかしげた。
「ふたりで聖堂(湯島)に通っておった頃じゃ」
「さて」
留学したての頃の思い出なら山程ある。
懐かしい、忘れがたい日々だ。
誠之進は右近に返杯した。
今度は誠之進が盃を満たしながら、
「愛宕詣での帰り、安酒に悪酔いしたときのことよ」
「ああ…」
右近はふっと目元に笑いを滲ませた。
「芝神明下の煮売り酒屋だったな」
誠之進がいかにも、とうなずいた。
あれは確か江戸へ出てきたばかりの十八の夏。
愛宕神社の男坂に挑戦し、無事に参詣をすませた。愛宕神社の石段は『出世の石段』として名高く、四十度の急勾配、八十六段の石段だ。足弱な者にはとても登りきれるものではないが、若い誠之進と右近にとって、山上にたどりついた爽快感は言葉に尽くせないものだった。遠くは房総半島までも望み、山上からは江戸の街が一望のもとに見渡せた。
すっかり気をよくしたふたりは、夕方から芝神明近くの煮売り酒屋で飲み始めた。男坂制覇の興奮覚めやらぬまま、江戸の街はとてつもなく大きいのうと、浅葱裏丸出しのたわいない話に興じていた。
あっという間に時は過ぎ、酒屋を出た時刻は相当遅かったはず。酒が粗悪だったか、調子にのって深酒をしてしまったのか。ふたりともがおぼつかない足取りとなり、無事藩邸に帰りつけそうになかった。
これは野宿も致し方なしと思ったところ、誠之進が大真面目な顔で『かくなる上は、話のたねにふたりで出合茶屋へ泊まらぬか』などと言い出した。
『たわけたことを言うな!』
『なに、どのような所か見てみるだけじゃ』
『誠之進。いくら酔ったとはいえ…我らのような屋敷勤めの者が、そのようないかがわしい場所へ出入りしてはならぬ!』
『かたいことを言うでない、右近。あの男坂のおかげで足がもはや言うことをきかぬ。おまえとて膝が笑っておるではないか。柔らかい布団の上で寝たくはないか?』
『いやじゃ、ならぬといったらならぬ!』
『案ずるな。どうせ足腰たたぬゆえ、おまえに襲いかかったりはせぬ』
『あたりまえだ、ばかものっ!』
ろれつの回らぬ押し問答の末、結局は神社の拝殿の軒下を借り、大刀を股ぐらに抱えるようにして座り込み、肩を寄せあって朝までぐっすり眠った。
蘇った記憶に右近が苦笑を浮かべると、誠之進が思いがけぬ一言を放った。
「あの夜、出合茶屋へ泊まろうなどと言うたのは…あながち戯れ言ではなかった」
艶めいた低音に鼓膜をくすぐられ、右近の心の臓がとくんと鳴った。
「誠之進…」
呼びかける声が期待に掠れた。
誠之進は真顔に戻り、右近をひたと見た。
「あの時だけではない。私は…心の底で、いつか貴公と情を交わしたいとおもうていた」
深い声音で言切った誠之進が、ふっと視線を外した。
「男同士で恋だなんだと阿呆らしい…そう言いながら、まことは、貴公に死ぬほど焦がれていた」
胸の奥から紡ぎ出された誠之進の本音に、右近は言葉を失った。
津波のごとくせり上がってくる、混乱と紙一重の歓喜。
膝上で握りしめた手が情けないほどに震えていた。
「今日はそれを言いにここまで来た」
誠之進は一度大きく息をついた。
「おまえは私の初恋じゃ」
「誠之進…ッ」
「十四で藩校に入学したときには…すでに寝ても覚めてもおまえのことを…」
その昔を思い出したのか、誠之進が照れ臭そうに笑った。
「それは…まことか」
掠れた声で尋ねる右近に、誠之進がしかと目を見てうなずいた。
「包み隠さず申す。おまえと近づきになりたい一心で、父上に無理を言うて藩校へ入った」
「…そのようなことっ」
愚かものめと言いかけた右近が、嗚咽に喉を詰まらせた。
誠之進は真摯な声音で続ける。
「友として尊敬してきた気持に嘘はない。だが私は…おまえを敬いながらも、愛しさは募るばかりで…」
愛しいと…誠之進は言った。
夢ではない。
おまえは私の初恋じゃと、誠之進は確かにそう語った。
共にあった長い年月、誠之進との数多の思い出が、今、まったく別の色を帯びて右近の胸に迫った。
「誰の手にも渡すまいと…おまえに内緒で若侍と何度もやりあった」
誠之進が遠い目をしてくすりと笑みを洩らした。
「いらぬお節介を…」
右近の両の目から静かに涙がこぼれた。
焦がれて焦がれて、どうしようもなく膨らんだ想いが溢れ出るように。
何ゆえ打ち明けてくれなんだ?
尋ねるのはもはや愚問だった。
誠之進は昔の右近の言葉を真にうけたのだ。
『男同士で契るなぞ鳥肌がたつ』
十五歳の夏、内藤嶺次郎に襲われ、間一髪で誠之進に救われたとき、右近が誠之進にぶつけた言葉だった。
あの時、誠之進は嶺次郎たちを散々に打ちのめした後、下帯一枚の姿で縛られ床に転がされていた右近の縄を解くと、右近に背を向けたままじっと拳を握りしめて立っていた。
『こちらを向いておくゆえ、早う着替えるといい』
こうして想いを打ち明けられた今、同じ男としてその胸中をおもう。十五歳の少年が、恋しい相手を前に極限まで己を律した姿に、右近の胸は張り裂けんばかりだ。
そして今町の網小屋で夜明かしした、十六歳の夏。
どれほどの想いを胸に秘め、誠之進はただじっと右近を抱き締めていたのか。
夜が明けたのち、ふたりで見た神々しいほどの朝焼けを、右近は瞼の裏に描いた。
誠之進が男など抱けぬと右近が信じていたように、誠之進もまた、右近が男に肌身を許すなどあり得ぬと、そう確信していたからこそ。
斯程に近く魂を寄せながらも、決して友としての一線を超えることはなかった一一。
ようやく右近の唇が動いた。
「私も…ずっとおまえのことが」
「うむ」
「恋しゅうてならなんだ…」
背に負うた重き荷を降ろすがごとく、右近は誠之進への想いを口にした。
右近は誠之進の前に端座したまま、もはや涙を堪えようとはせず、流れるままにまかせた。誠之進も鳶色の瞳を熱く潤ませ、涙する右近を一心に見つめ続けた。
隠し続けた恋。
己の胸ひとつに納めようとした想い。
今、初めてそれをぶつける右近を、誠之進は同じ想いで受け止めてくれた。
つづく
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