三十三の巻
「恋重荷」2




by 戸田采女

 お互いの心に気付かぬまま、時は流れ、道は別れた。今さら引き返せぬことは、右近とて承知している。

「誠之進…一度だけでいい。契ってくれ」

 その覚悟で誠之進をここへ呼んだ。

 誠之進は一瞬瞠目した後、眉を曇らせて押し黙った。

 三郎を裏切れと言っているのだ。悩むのは当然だろう。

 右近は息苦しさを持て余しながら、不退転の決意で重い沈黙に耐えた。

 時刻はそろそろ暮れ六ッか。遠くから三弦のつまびきが聞こえる。夕闇が迫り、気がつけば部屋の中は随分と暗くなっていた。右近は行灯の灯心を起し十分な明るさを回復した。ふたたび端座して誠之進の出方を待つ。

 右近は深く息を吸って気を鎮め、誠之進が心を決めるのをひたすら待った。

 長い時が流れたのち、誠之進が静かに口を開いた。
「ならば貴公の…殿への誠はいかがする?」
苦渋を滲ませた声音で右近に問いかけた。
「殿への…誠?」
「主人だからという理由だけで、肌身を許したのか?」
「それはっ…」

「そうではあるまい…」
責める口調ではなかった。
誠之進は目を細め、柔らかい眼差しで右近を見つめていた。

 懊悩の末、何かを思いきったような誠之進の瞳に、右近は淡い落胆を覚える。

「一度だけとはいえ私と枕を交わしたのち、何食わぬ顔で殿に仕える気か?」
「そ、それはっ」
図星を刺された右近が、思わず乗り出した膝で膳部を蹴ってしまった。

 狼狽ついでに右近は破れかぶれな台詞を口にした。
「ならば貴公はどうなのだ? 三郎への操だてで私には触れぬと申すか?! 相変わらずご立派なことを言う…」 
どうせまた余裕で嗜められると思いきや、誠之進は鳶色の瞳をかっと見開き、
「違う! それは…私が度し難い男だからだっ」
握り拳で畳を叩いた。
右近は思わず息を飲み、身を強張らせた。

 誠之進は眉を寄せ、熱を帯びた眸で右近を見つめる。
「一度でも肌を合わせてしまったら…地獄へ堕ちるより他ない」
「誠之進…」
何を大袈裟なと、小さく首を振る右近だったが、
「貴公は…今宵一夜と思い定めて、あとはきっぱり思い切るつもりかも知れぬが…」
「それは…」
「一度でも抱いてしまえば…私はおまえを離せぬようになる」

 着物の袷から、熱い指先がいきなり忍びこんだかのようだった。
触れられてもいないのに、右近の肌が一気に火照った。

「そうなれば、もはやふたりで腹を切るより他、道はない一一」
誠之進は眸と閉ざし、低く溜息のように呟いた。

『一度でも抱いてしまえば…私はおまえを離せぬようになる』

 この男は…何と言う台詞を吐くのだろう。

 女ならばいちころだ。

 すぐにも己から帯を解くだろう。

 ほれ、自分とて、情けないほどに胸が震えている…。

 斯様な言葉で翻弄しながら、それでも三郎を裏切れぬというのか。

 どうでも私を拒む気か、誠之進?!





 右近はゆっくりと息を吐き、一度肩の力を抜いて居住まいを正した。顎を僅かに持ち上げ、誠之進と再び目を合わせた。

 誠之進の瞳の中にはそれでも迷いがあった。先程のひとことは誠之進の最後の防波堤なのだろう。ここで自分が『ならばともに地獄へ堕ちようぞ』と踏み込めば、堤は存外容易に破れるやもしれぬ。

 問答無用じゃ。

 誠之進と思いを遂げられるなら…、命など惜しいものか。

 誠之進を宿へ呼び出した時から、心は決まっていたはずではないのか?








 かくいう己も、なにゆえここへきて迷う?

(殿への…誠か)

 つい先日も湯殿で惣一郎に抱かれた。

 惣一郎の愛撫に浅ましいほど溺れきることで、右近は本心を隠し続けた。

 自分は既に心で惣一郎を裏切っている。

 今日、この場に誠之進を呼び出したことが、不忠の証に他ならぬ。

 そのことで惣一郎が右近を成敗すると言うのなら、是非もない。

 なれど一一。

 己ひとりが誠之進と想いを遂げ、恋の成就に陶酔しつつ勝手に命を断つなど…。

 あまりにも惣一郎を踏み付けにした所業だ。

 残された惣一郎はどうなる…。

 胸の奥が、熱を持ったように疼いた。

(殿に…そのような仕打ちはできぬ)

 この気持は、ひとかたならぬお引き立てを賜った恩だろうか、忠義だろうか。

『そうではあるまい…』

 先程の誠之進の言葉と右近の心の声が重なった。

 誠之進への想いに揺れ続けた右近を、惣一郎はそれでも愛し続けた。

 時に落胆し、時に嫉妬に我を忘れながら、右近を抱きしめる手を決して離そうとしなかった。

 その執着、一途さを右近は厭うことができなかった。

(殿と私はよう似ておる…)

 誠之進を慕い続ける自分と、鏡映しのような惣一郎の姿だった。

 主人の少し寂しげな横顔を、右近は瞼の裏に描いた。

 自分もまた、惣一郎の側で生きることを望んだのではなかったか。

(生涯お側に仕えると、お約束いたしましたな…)

 昨年の秋、鎌倉の浜でそう告げたとき、惣一郎は泣き出しそうな表情で痛い程に抱きしめてきた。

(惣一郎様…っ)

 右近の心の中で、涙が一筋こぼれた。

 狂おしいほどに求めた、誠之進とのただ一度の逢瀬。

 右近は最後の最後でその可能性を自ら捨てた。




 静かに心を決めた右近が、面を上げた。
「腹を…切るわけにはいかぬな」
敢えて誠之進に先んじた。

 一方的に拒まれるのは辛すぎる。
右近は自身の手で幕を引きたいと思った。

 誠之進の瞳が急激に潤んだ。
「ここで…我らふたり、殿や三郎ぎみへの御奉公を終えるわけにはいかぬ」
「いかにも。私がおらねば…、殿のことじゃ。またぞろ遊蕩に耽るやもしれぬ」
「右近…っ」
端正な友の顔が男泣きに歪んだ。
思えば、誠之進の斯様な姿を見るのはこれが初めてだった。

(泣いても絵になる男じゃのう…)

 一生にただ一度の恋。
決して忘れはしない。誠之進への想いを捨てたりはしない。
なれど一一。

 右近は嘆息しながら、ことさら明るく声を上げた。
「堀田様も去られた今、殿をお諌めするものは私しかおらぬのだ」
「そのようなこと…っ」
「自惚れが過ぎると笑うてもいいぞ、誠之進」
右近もまた心で泣き濡れながら、薄く色を刷いた頬に極上の笑みを作った。

 誠之進ががくりと畳に両手をついた。
「ゆるせ…右近っ」
「もう言うな、誠之進…」

 肌を合わせぬことで極める恋もある。

(負け惜しみかも知れぬが…)

 右近は溜息を洩らした。

(この想い、極めてみせようぞ)

「右近…」
「誠之進」

 目を見交わせば、お互いの胸中が手にとるようにわかった。

 未練も、心残りも、すべて歯をくいしばって振り捨てる。

 誠之進がふたたび身を起して居住まいを正した。
「今さら…思い出に手ぬぐいを換えてくれというのも…あれだな」
無理に作った笑顔の中、十五歳の昔に戻ったような眸で誠之進が尋ねた。
右近も切なさを堪えて微笑み返す。
「もっとよいものをやるから…目をつぶれ」
「え」
「はよう」
「こ…こうか?」
誠之進は素直に目と閉じたが、菓子でももらうつもりか、無意識のうちに膝上で掌を上に向けた。

(人品卑しからぬくせに、誠之進は妙なところで庶民的じゃ…)

 右近は滲んだ涙を指で拭い、膳部の前から離れて誠之進の傍らへ膝行した。
そのまま膝立ちになり誠之進のほうへ屈みこむ。
右近はそっと誠之進の肩に手をかけると、わずかに首を傾け、己が唇で愛しい友の唇に触れた。

 ただ一度、しっとりと合わせた唇は、幾度も夢に見た感触そのままだった。誠之進の微かな息づかいに後ろ髪を引かれながらも、右近は潔く身を離した。

 惚けたように見つめ返す誠之進に、
「貴公…斯様なことで腹は切らぬだろう?」
「そ、それはっ…」
右近が高らかに笑い、誠之進もつられて涙混じりの笑顔を見せた。




 右近の命がけの恋は報われていた。

 心と心はいつの日にも、しっかりと結ばれていた。

 されど、もはや過ぎた思い出として、大切に胸にしまってゆかねばならぬ。

 片恋ではなく、相愛の、幸せな初恋の思い出として一一。

 誠之進と右近はどちらからともなく手を差し伸べ、ひしと抱き合った。

 それはかたいかたい、友としての抱擁。

 続きの間の襖は決して開くことはなかった。

 店先に掛け行灯が灯り、客足が繁くなった頃、ふたりは穏やかに笑みを交わしながら『水月』をあとにした。


恋重荷 了




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イラストは「薫風館」さんからお借りしています。


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