弥生の末の好天に引き比べ、四月に入ってからは曇りの日がおおく、卯の花くだしの雨がここ数日降り続いている。人々は薫風吹き抜ける初夏の陽気を心待ちにしていた。
高山城下はその日、朝から煙のような小雨が降っていた。
本丸の大書院には、内藤家をのぞく、家老・中老六家の重臣たちがうちそろい、信輝公のお出ましを待っていた。
藩主三男・三郎信尭の守役、誠之進も同席するように父からいわれ、末席に控えている。誠之進は筆頭家老・溝口主膳の嫡男でもある。
小姓を従えた信輝公と溝口主膳が入室すると、一同そろって平伏した。
「面をあげい」
信輝公の言葉に、皆が一斉に身を起こし、居ずまいを正した。
「本日、皆に集まってもろうたは、横川藩本田家と三郎の養子縁組の儀につき、意見を聞きたかったからじゃ」
ほう…それはそれは。
列席の重臣たちからどよめきが洩れた。
末席の溝口誠之進は、冷水を浴びせられたがごとく、総身をこわばらせていた。青ざめたまま微動だにしない。
三郎はすでに本田家との縁組みの件、父君・信輝公と話し合っている。ところが何を思ったか、今日にいたるまで守役の誠之進にはこの件を内緒にしていた。誠之進にとってはまったく寝耳に水。信輝公の第一声に色を失い、声も出ない様子である。
信輝公が軽くうなずき、筆頭家老・溝口主膳からの説明が始まった。
「駿河横川藩五万石の本田家から、田安家を通して、三郎ぎみを養子にと打診があった。本田家では一昨年末、世継の忠興様が流行り病でお亡くなりになった。当主の忠直様はすでに高齢で、この先和子のできる可能性はないと見てよかろう。他の実子は側室が生んだ十歳の姫、るり姫様おひとりだ。昨年から、本田家では養子を探していたが、話を漏れ聞いた田安の慶久様が、結城家の三男はどうじゃと推挙されたらしい。以来、留守居役岩田が中心となり、本田家との話をすすめている。ご正室、お牧の方様も、よい縁組じゃとお喜びの御様子…」
「まだ…決めたわけではないが。そろそろ、皆にも報告せねばと思うてな」
煮え切らない物言いではあるが、実のところ、信輝公の気持ちはかなり傾いていた。
養子には行きたくないという三郎の心情は重々承知しながらも、信輝公はそれを一種の里ごごろ、幼さゆえの甘えと解釈していた。たとえ今、泣く泣く養子に出たとしても、あちらへ入れば五万石の藩主なのだ。この先、長い将来を考えれば、正室に疎まれ、惣一郎の厄介になりながら、高山で微妙な立場のまま暮らすより、よほど三郎のためになるのではないか…。
それに田安殿のお声がかりとなると、断るにしてもそれ相応の理由がいる。正室・お牧の方からも信輝公は返答を迫られていた。八月に江戸へ出府するまで考えさせてくれと、返書を出しておいたものの、この話、田安殿の顔を潰さずに断るのは極めて難しい。
*
説明を終えた主膳は、ほくほく顔で一同を見回した。
「各々方、いかが思われる? 駿河横川藩五万石といえば、温暖な気候に恵まれた豊かな藩じゃ。まこと、よいお話ではないか? 先方の本田家では、来年の三郎ぎみの元服を待って、まずは仮祝言。御年十歳のるり姫様が十四になられた時、正式な夫婦にしてはどうかとの申し出じゃ」
中老の酒井が大きくうなずき、
「三郎ぎみは今年十六であらせられるゆえ…四年後というと二十歳か。まずは理想的な縁組みでござるな」
いい終えるやいなや、末席の誠之進にいわくありげな視線を投げた。
本能的に不快なものを感じたのか、誠之進が眉をひそめた。中老の堀はまったくの無表情。山崎翁は押し黙ったまま、何やら気まずそうに目を伏せている。残りの重臣は曖昧な笑みを浮かべ、ちらちらと誠之進のほうを盗み見ている。
主膳は何事かといぶかった。世間のものさしで考えれば、この縁組、部屋住みの三男にとっては願ってもない話だ。重臣一同にとっても慶ばしいはずだが、この反応の鈍さはいかなる理由か?
信輝公はまだ決断していないというが、こうして重臣一同に意見を求めるのは、心が動いている証拠と主膳は見ていた。
(いつものことじゃ…。殿自身、お心は決まっていても、三郎ぎみに御自分の口から無理に養子にいけとは言えぬのであろう…。されど、斯様な形で養子の話を公にすれば、もはや流れは決したも同然…)
主膳は末席に控える息子を見やった。
(許せ…誠之進。此度のこと、騙し打ちじゃと其許は儂を恨むであろうな…。九つのときから、片時も離れずお育てしたのだから…。三郎ぎみに情が移ってしまう気持ちはわかる。なれど、もはや御分家などと平地に乱を起こすようなこと、これ以上、其許に言い立てられては困るのだ。ここはお家の安泰を一番に考えてくれ。堪えろ…誠之進。余計な波風をたててくれるな…)
主膳には誠之進の考えが手にとるようにわかっていた。承知しながらあえてそれを黙殺した。
「ご一同、何か御意見は?」
「恐れながら…」
家老・中老の中で最年少の堀隼人丞が口を開いた。
「本田家ほどの名家となれば、当然分家がございましょう?」
「さて…それが何か?」
息子を黙らせたのはいいが、意外なところから火の手があがった。
堀は臆せず主膳を正面から見つめて言った。
「大名家の養子といえば、まずは分家、親戚に人を求めるのが筋にござります。横川藩本田家と結城家は某の知る範囲では姻戚関係にもあらず」
「堀殿は…何がおっしゃりたいのだ?」
「同じ譜代とはいえ、詰めの間も異なり、さほど心易くもなかったわが藩に白羽の矢をたてるとは、某、少々解せませぬ。…よもやとは思いまするが、先方は持参金養子をお望みなのでは」
「これ堀殿…めでたい話にけちをつけるような物言い、慎まれよ!」
同じく中老の奥野がわざとらしくせき払いした。
内藤帯刀の腰巾着で、帯刀の罷免以来、影が薄かった奥野だが、ここぞとばかりに若い堀を攻撃した。
しかし聡明な堀は奥野などまともに相手にしない。
あくまでも主膳に視線をあてたまま、
「殿の御寵愛深い、三郎ぎみの御養子先です。我ら重臣が十分な調べもせずに三郎ぎみを送りだし、後々不都合があっては一大事。ここは田安様のお話をうのみにせず、こちらでも独自に聞き合わせを行うべきではありませぬか?」
「左様なことは、江戸留守居の岩田にまかしておけばよいであろう? 何のため高禄を食んでおるのじゃ」
己のことは棚にあげ、事なかれ主義の次席家老・小栗があくびをかみ殺しながら言った。
「あの御仁は一」
言いかけて、堀は流石に口をつぐんだ。
『あのような品性卑しき男、信用なりませぬ』と続くはずだった。堀は江戸勤番時代、岩田と面識がある。
その時、末席に控える誠之進が、
「殿、恐れながら」
身体の向きを変え、決死の形相で信輝公を見上げた。
すかさず主膳が上座から息子を一睨みした。
「誠之進。其許にこの場に同席することは許したが、発言は許さぬ。控えおれっ」
地を這うような声音で、主膳は誠之進を叱責した。
「各々方、他に何ぞ御意見は?」
主膳はあらためて一同を見渡したが、それ以上質問は出なかった。
堀隼人丞の投じた一石は中途半端に波紋を広げただけに終わった。
会議はあっけなく終わり、信輝公は小姓を従えて退出した。重臣たちも引き続いて席を立ちはじめた。
誠之進は末席に端座したまま、石像のごとく動かない。
「誠之進、話がある。明日、屋敷へ顔を出せ。よいな」
主膳が上座から声をかけても、誠之進は目線を落としたまま無言である。
「誠之進!」
誠之進は頑として面をあげようとしなかった。
(意固地になりおって…、勝手にせい!)
主膳は大きく鼻を鳴らすと立ち上がり、大股で息子の前を通り過ぎていった。
つづく
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