堀隼人丞が辞去しようと腰を上げたところ、
「誠之進様」
襖の向こうからお福の声がした。
「お福…何用じゃ?」
「三郎ぎみが藩校からお戻りになりました」
堀と誠之進は期せずして一瞬顔を見合わせてしまった。
先程の話を思い出し、両人は照れたように笑みを交わした。
「では、私はこれにて。貴公も早う、三郎ぎみのお出迎えに上がるがよい」
「…承知いたしました」
誠之進は素直に頭を下げた。
先に堀、少し遅れて誠之進が立ち上がると、勢いよく離れの木戸の開く音がした。室内を歩くには少々元気の良すぎる足音が続いた。
「誠之進! 藤十郎が来ておるとな?!」
次の間に三郎がやってきたらしい。お福が襖を開けた。
「藤十郎、そなたがこの館へ参るとは珍しい…本日は、いかがしたのじゃ?」
屈託ない笑顔で問う三郎に、堀は軽く目礼し、
「誠之進殿に火急の用件がござりまして…。若のお留守中に失礼をいたしました」
「構わぬ、いつでも好きな時に訪ねてくるがよいぞ」
「恐れ入りましてござります」
「…その様子だと話は終わったのか?」
「はい」
「ならば、一緒にお福のぼた餅を食していけ」
「ありがたき仰せにはござりますが…」
「三郎ぎみ…」
言い澱んだ堀に替わり、誠之進が優しく三郎を見つめ、ちいさく首を振った。
堀には至急屋敷に戻リ、江戸の堀田又左衛門宛に書状をしたためてもらわねばならぬ。
「何じゃ…藤十郎、急ぐのか?」
「はい。まことにありがたいお言葉ながら、本日はこれにて失礼させていただきます」
「…左様か…所用とあればいた仕方ない」
三郎は軽い溜息をつき、
「お福。ぼた餅を…少し包んでやれ」
「かしこまりました」
満月のような顔でお福がにっこり三郎を見上げた。
「では…ありがたく頂戴して参りまする。妙も喜びまする…」
「うむ、妙にもよろしゅう伝えてくれ」
三郎は堀夫妻を好ましく思っている。
町家育ちの堀の妻・妙とはやはり気があったらしく、先日の溝口家の桜狩以来、一気に打ち解けた様子だ。幼いながらも自分の立場を心得ていたのか、これまで三郎は、どの重臣とも等しく距離を保ってきた感がある。しかし内心では、一番年若く、誠之進の藩校時代の先輩でもある堀に、特別の親しみを感じていたようだ。
三郎はそのまま離れで堀を見送り、誠之進とお福は玄関まで客人を送りに出た。
堀が辞去した後、
「お福…先程はすまなんだ。茶とぼた餅を離れに運んできてくれぬか? 三郎ぎみといただくゆえ」
「はい、誠之進様」
お福は穏やかに微笑んだ。
*
堀はかなり厳しい言葉も残していったが、それでも堀と話したことで、誠之進は少し気分が落ち着いた。おかげで三郎を目の前にしても、いきなり問いつめなくて済む。誠之進はぼた餅を口に運びながら、まずは三郎の話に耳を傾けた。
相次ぐ天災でいよいよ財政が逼迫した高山藩は、昨年『半知御借上』を実施した。俸給の半額カットである。昨年秋は凶作による飢饉の恐れすらあり、藩校内の雰囲気も重苦しいものだった。だが、島崎屋という海商のはたらきで、師走には無事禄米が支給され、今秋の作柄が例年通りなら、『御借上』は今年いっぱいで終わる見通しが強くなった。
暮らしの憂いが少なくなり、おのずと教室の雰囲気も明るくなったという。三郎は級友たちが以前のように親しく言葉をかけてくれるようになったのが嬉しいようだ。最近まで下級藩士の師弟たちは、『御借上』や藩政への愚痴が三郎の耳に入るのを恐れ、ついつい遠巻きにしていたのだ。
「それでな、誠之進……源蔵のやつときたら…」
ぼた餅を頬張りながら、三郎は嬉々として今日の出来事を語る。源蔵が『大学』の解釈で珍妙な答えをして満座をわかせたらしい。誠之進は微笑を浮かべて相づちを打ちながら、いつ、あの話を切り出すか…胸底に重い石を抱えているような気分だった。
三郎が普通の藩士の子であれば一。
ごく普通の武家の子として、道場に通い、藩校生活を楽しみ……若侍と義兄弟の契り交わしたところで、だれに後ろ指さされることもない。
なぜ殿の御子に生まれたのだ。それも異腹の三男という中途半端な立場に。
同腹の兄のもとならば、無理に養子にいかずとも、「厄介」として居座ったところでさして遠慮もいらぬ。
信輝公の次男・犬千代が夭折し、残る直系の男児は嫡子の惣一郎と三郎のふたりだけになった。三郎の母、おひろ亡きあと、若い側室をもとうとしない信輝公が、新たに男子をもうける可能性は低かった。三郎は惣一郎に万一何かあったときの『御控え』として、ある意味重臣たちからも大切にされてきた。
しがし世嗣・惣一郎がもはや三十歳。壮健で正室・綾姫との間に和子が待望される今、異腹の弟・三郎は、お牧の方だけでなく、江戸藩邸全体にとって邪魔ものでしかないのか? 国許の重臣たちまで、よってたかって三郎を養子に出そうと言うのなら、三郎を城へひきとる必要などなかったではないか? 町人として幸せに暮らしていた三郎を、無理矢理城へ連れてきておいて、今度は一。
これでは久右衛門殿(亡き三郎の祖父)にあわす顔がない。
御家のためといいながら、侍はあまりにも身勝手じゃ。殿も父上も…皆、恥じを知るがよい…。
「誠之進…?」
余程恐い顔をしていたのだろうか? たぎるような怒りの中へ没入しかけたとき、三郎が誠之進の名を呼んだ。
三郎は茶器を手にして行儀よく座り、小首をかしげて見つめていた。
「誠之進? 今日はいかがしたのだ? さきほどから…上の空だぞ?」
「若…」
「何じゃ、何かあるなら申してみよ」
黒目がちの瞳が誠之進をひたと見た。
これ以上口をつぐんでいるわけにもいくまい。
「…では、申し上げます」
誠之進は身体の向きを替え、三郎を正面から見つめた。
「本日…大書院に重臣一同が召集され、殿の御臨席のもと、父・溝口主膳より横川藩本田家との養子縁組の儀につき、説明がござりました」
三郎の瞳が一瞬にして曇った。
「せ、誠之進…」
三郎はわずかに唇を震わせて誠之進を見つめた。
「若は…以前から御存知だったのですね?」
三郎は無言でうなだれた。
決して詰問するつもりはない。打ち明けてもらえなかった淋しさはあるが、誠之進はつとめて穏やかな口調で話を続けた。
「…若を責めてはおりませぬ。ただ、何ゆえ私にお話いただけなかったのかと…」
「すまぬっ…父上は…今いちど考えてみるとおっしゃったのだ。こ、こんなに早く皆に話すとは…」
「先日、わが山屋敷へお泊まりになった時、お父上と本田家の話をなされたのですか?」
三郎は済まなそうにうなずいた。
「そなたに…もっと早う言おうか言うまいか…、ずっと迷っていたのだ」
「何ゆえに…?」
動揺する三郎に、誠之進は優しく先を促した。
三郎は奥歯を噛みしめてうつむいたが、やがて重い口を開いた。
「江戸から使者が来たとき…そなたは視察でおらなんだ」
誠之進は黙って首肯した。
「誠之進…。私は…分家の件、今いちど、自分から父上にお願いしてみようと思うたのだ」
「…して、殿は何と?」
誠之進自身も答えを聞くのが恐かった。三郎は山屋敷での父との会話を思い出したのか、伏目がちに唇をかんだ。
「五万石の藩主の座を蹴る気持ちがわからぬ、とおっしゃられた」
やはり…、と誠之進は鈍い溜息をつく。
「大名になぞなれぬ。領地などなくてもよいから、ここにおりたいと…、何度言うても父上は首をかしげるばかりじゃ」
三郎は激しくかぶりをふって続けた。
「ならば…是が非でも養子にいけとおっしゃるなら…誠之進を供につけてほしいと頼んだ」
「三郎ぎみ…」
「誠之進とならば、どんな遠くへでも行くと…申し上げた」
(そのようなことを…自ら殿におっしゃったのですか…っ)
いじらしさに胸が詰まった。誠之進はたまらず三郎の前ににじり寄った。
「誠之進っ!」
三郎は喉声に叫ぶと、身を投げるように誠之進の胸に飛び込んできた。
誠之進も膝立ちになって両腕で三郎をしかと抱きとめる。
もはや堪えきらなくなったのか、三郎は嗚咽まじりに語り始めた。
「それも、父上は……お許しくださらなんだっ」
「三郎ぎみ…」
当然だ。信輝公は誠之進を次の筆頭家老にと決めている。誠之進が三郎の近侍として本田家に入るなど、信輝公にとってはあり得ぬ話だ。
「そなたの守役のつとめは元服まで。いつまでも私のお守をしているわけにはいかぬ、わがままは許さぬと」
(殿っ……)
信輝公がそこまではっきり仰せになったとは。
信輝公の決断に父・主膳の意向がどこまで反映されたかわからない。しかし、このままでは信輝公はおそらく本田家との縁組を決めてしまうだろう。堀隼人丞の協力を得て、誠之進は本田家の素行を早急に調べるつもりだが、よほどの醜聞でも出てこない限り、信輝公にこの話をあきらめさせるのは容易ではない。
涙を堪えながら、誠之進の胸に顔を押し当てていた三郎が、ふと顔をあげて呟いた。
「そなたに恥をかかせてしもうたな…。すまぬ、誠之進」
「恥などと…」
誠之進は小さく首を振り、三郎の背をあやすように撫でた。
「守役のそなたが何も知らされていないなど…さぞや面目を失ったことだろう? 許せ、誠之進」
透明な涙がひと筋、三郎の頬に流れた。
何ゆえ、守役の自分に打ち明けず、父・信輝公に三郎が直談判したのか…。
(あなたという人は…)
誠之進が三郎の幸せを守ろうと、父であり筆頭家老の主膳に対抗する一方、三郎は三郎の立場で加勢しようというのか。守られて当然の立場の三郎が、ふたりのため、誠之進のために、初めて父君に必死の思いで訴えた。
(いじらしいことを…なさるものだ)
言葉にできぬ程のいとしさが、ひたひたと胸に満ちあふれてきた。
「三郎ぎみ…」
誠之進は三郎をくるみこむように抱きしめた。誠之進の背に回った三郎の手にも力がこもる。
昂った気持ちは躯の熱を静かに呼び覚ました。
だが障子戸はたててあるとはいえ、庭先に使用人がいつ現れるとも限らない。昼間から離れの中で滅多なことはできなかった。誠之進は三郎の額に唇を押し当てるだけに止め、なごり惜しそうに身を離した。
三郎も察したのか、潤んだ瞳で見つめながらも大人しく従った。
先程も堀に忠告されたばかりだ。どんなに心がはやっても、三郎との逢瀬はこれまで以上に慎重に時と場所を選ばねばならならないだろう。
契りあったふたりが、触れようと思えば触れられる距離にいながら、抱き合って口を吸い合うことすら憚られる。誠之進は口惜しいを通り越して理不尽すら感じていた。せめてふたりのうちどちらかがもっと自由な立場に生まれていたら、堀と妙のように身分が違えども、幸せに暮らせる道がいくらでもあろうというものを。
誠之進はふと思った。
ならば己のこの身分、捨てることはできまいか?
自分と三郎を縛るすべての枷を引きちぎってゆくことは、まことに叶わぬ夢なのか?
ふたたび目をあげれば、三郎の黒目がちの瞳が熱を帯びたように誠之進を見つめていた。まっすぐに求めてくる視線に、誠之進の心は乱される。今すぐ、この場で抱いてしまいたいのを懸命に堪え、瞳にすべてを託して想いを語らせる。肌身をあわせるがごとく、互いに視線をしっとりと絡ませながら、ふたりは静かに端座していた。
耳を済ませば雨の気配はすっかり止み、障子戸を通して薄日がほのかに差し込んでいる。
「若…」
誠之進は頭に浮かんだ想念を口にした。
「ん?」
「わが弟、慶次郎を如何思われます?」
ふって湧いたような問いかけに、三郎は小首をかしげた。
「慶次郎は…まだまだ弱輩ではござりますが、今少し研鑽を積めば、家老となれる器でしょうか?」
「誠之進…?」
三郎の瞳が大きく見開かれた。
誠之進の意図を悟った三郎が、思わず身を乗り出した。
「なれど…それは父上も主膳もっ…」
いざとなれば許しなど得ずともよい。駿州であろうといずこであろうと、私は生涯あなたと共に…。
「分家が叶わぬ時には…斯様な道もござりましょう」
誠之進は三郎の瞳の奥を見つめ、力強くうなずいた。
驚愕し、恐れながらも、隠しようのない歓喜が三郎の頬に広がった。
叢雲 了
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