六の巻
「白牡丹」1




by 戸田采女

 目には青葉、山ほととぎす、初がつを

 東都では四月初旬にはじめて魚河岸に入る鰹を「初鰹」と呼んで珍重した。文字どおり、一番に河岸に入る鰹は将軍家お買い上げと決まっていたのだが、そこはそれ。金に糸目をつけない豪商たちが、闇ルートで一足先にこぞってもとめたという。

 池之端の高山藩中屋敷にも、四月某日、初鰹が届けられた。送り主は天満屋五兵衛。永年、高山藩結城家と昵懇にしている両替商である。昵懇といっても、近年までは藩が大名貸を頼み、天満屋がそれに応じるという間柄だったが、今では世嗣の惣一郎と天満屋は持ちつ持たれつの関係だ。

 大きな声では言えぬが、昨年、無聊をかこっていた惣一郎が、手すさびにかいた衆道ものの枕絵が大当たり。版元の近江屋もほくほくで、今年は四十八手枕絵全集を出しましょうと、えらい力の入れようだ。

 ただし、大名家の世嗣が「あぶな絵」絵師と世間に知れては一大事。そこで、天満屋が惣一郎のマネージャーとなり、版元の近江屋との間に立ち、一切の交渉を取り仕切っていた。

 過去のいきさつで、天満屋の顔など見たくもない右近ではあったが(下弦の月・八の巻「曼珠沙華」参照)、惣一郎に仕える用人の立場ではいたしかたない。その日もにこやかにとはいかぬまでも、貼り付けたような笑みを浮かべて天満屋の使いに応対し、ありがたく初鰹を受け取った。

 小姓頭の仙之丞は、見事に脂の乗った鰹を見て、はしたなくも舌なめずりをしている。
「右近様、今夜は伏見の諸白*でも買ってきて、私の長屋で一杯やりましょう! 刺身は生姜醤油でいただいて、かまは塩焼きに。中落ちと骨で吸いものも…」
若殿の惣一郎の膳にのるのは、どうせ刺身ふた切れか三切れと煮付け程度なのだ。残りは自分たちの役得と、仙之丞はすでに今宵の楽しい予定を組んでいた。

 (たまには御事と酒を酌み交わすのもよいな。若殿のお召しがなければ…の話だが)

 右近は柔らかく口元をほころばせながら、心の中で呟いた。




 右近が江戸に戻ってはや半年。

 病がちの母を国許に残しての出府を、右近はずっと気に病んでいたが、幸い今の所、母・結衣の体調はよく、春になってからは完全に床払いしたという。右近が赤子の時から仕えている老僕、池田孫作からの便りに、右近はほっと胸をなで下ろしていた。

 中屋敷では惣一郎を中心に、数人の小姓達と使用人が和気あいあいと暮らしている。何事も形式ばった藩邸とは異なり、時には主従うちそろって膳を囲むような暮らしだ。以前から惣一郎に仕えている仙之丞や竹弥はもちろん、新たに藩邸から連れてこられた者たちも、窮屈な暮らしから解き放たれて皆いきいきとしていた。

 右近も以前と同じ用人の役目を勤めつつ、小姓はもちろん、中間や小者たちにも剣の稽古をつけている。

 驚いたことに、惣一郎は今や職業絵師となっていた。もちろん藩邸には秘密である。おそらく江戸家老や留守居役あたりも見てみぬふりをしているのだろう。理由は簡単。枕絵のもたらす収入は、内証が火の車の江戸藩邸にとっては喉から手が出るほど欲しいものだった。

 惣一郎としては、純粋に絵を描くのが面白くてやっているだけで、己が絵筆一本でどれくらい稼ぎだしているかなど、わざわざ尋ねようともしない。そのような下世話な話は、天満屋と会計を任されている中屋敷の用人、つまりは右近の間で取り交わさねばならなかった。

 惣一郎の筆致の繊細さに助けられ、あぶな絵といえども十分に芸術品の域に達している。なるほど高値で売れるのもわかる、と瞠目する一方で、絵の中の若衆や小姓の顔が、どこか自分に似ているのが気に食わない右近であった。




 国許での身を削るような日々が嘘のように、中屋敷での時間は小春日和のごとく、穏やかにゆったりと過ぎていく。惣一郎は昔のように借財を重ねることもなくなり、用人の仕事は藩の勘定吟味役に比べれば、楽すぎて申し訳ないくらいだ。

 初鰹で盛り上がった二日後、爽やかなよく晴れた日、右近は惣一郎の部屋に飾る花を探して屋敷の庭を散策していた。庭番が丹精した牡丹や芍薬が見ごろを迎えていたが、探し物は一輪ざしに相応しい楚々とした花だった。

 太平の世。何事もなければ、江戸で暮らす大名家の世嗣の暮らしなど、どこも似たり寄ったりかもしれない。欠伸が出るほど平穏である。

 信輝公もご健勝の今、惣一郎が家督するのはまだ少し先の話となろう。

 幕府から無理難題を押し付けられたり、国許で大きな事件が起きぬ限り、惣一郎は絵の創作に励み、少なからぬ収入を得て、気侭に暮らしていられるだろう。

 事件が起きぬ限り…だが。

 あれから半年。

 右近の耳に何も入ってこないところを見ると、国許で不穏な動きはなさそうだ。しかし、中屋敷にいては藩邸の情報が十分に入ってこない。当たり前の話だが、ここで心静かに暮らしていては、藩政の中枢の動きはまったく見えてこないのだ。

 内藤帯刀の閉門はとっくに解けているはず。彼奴が今どこで何をしているのか…気にならないといえば嘘になる。

 そして…誠之進は。

 右近は一旦そこで思考を止めた。


 ふと目を凝らせば、前方に清楚な白花をつけたウメハナウツギの木があった。
「あれでよかろう…」
右近は花鋏を手に薄く微笑むと、軽やかな足取りで延石の小道をゆく。




 清清しい初夏の一日は、午後、一陣の風によって乱された。

 「右近さま! お玄関にお女中が見えています! 惣一郎様に目通りしたいと申されて…」
「なに?」
本日来客の予定はなかった。惣一郎を女客が突然訪なうとは…?
右近は首をかしげながら、玄関へ向かった。

 新しい小姓の数馬が「お女中」というから、若い女かと思いきや、
「久しいのう…右近どの」
「藤江様…」

 客人は老女であった。

 侍女をふたりばかり引き連れ、上屋敷から信輝公の正室・お牧の方付きのお年寄、藤江が訪ねて来たのだ。身分では微妙にあちらが上だろう。年長でもあるし、一応たてておかねばならない間柄だ。

 右近は慌てて式台に降りて正座し、鄭重に客人を迎えた。

 「これはこれは…ようお越しくださりました。藤江様におかれましては、御機嫌麗しく、まことに祝着至極にござりまする」
「御機嫌麗しくなどないぞ、右近どの。そなた江戸へ戻ってもう随分経つと聞くが、藩邸や奥にひとことの挨拶もなしとは無礼であろう?」
右近はぐっと返事に詰まった。

 そういわれては返す言葉がない。藤江の言い分はもっともだ。此度は役目を帯びての江戸出府ではなく、浅草の滝川道場に食客として滞在していた。刀の拵えを直そうと街へ出たところ、惣一郎に見つけだされ、そのまま中屋敷に居着いてしまったものだから、正式に藩邸へ挨拶にいく機会を逸していたのだ。一応、右近は現在、上席家老・溝口主膳の許しを得て、無役で休暇中ということになっている。

 右近は内心厄介な客がきたと舌打ちしたが、
「お叱りはごもっともにござります。お詫びは後ほど奥でゆっくりと…。さ、まずはお上がりくださりませ」
ゆるやかに花弁を開いた牡丹のごとく、艶やかな笑みで応じた。
藤江は右近が下手に出たことで満足した様子だ。
鷹揚にうなずくと、侍女に手伝わせて履物を脱いだ。
案内にたつ小姓の後に続き、藤江は打ち掛けの裾を翻して廊下を奥へと進んでいった。

 右近が肩で溜息をついたところへ、
「右近さま」
いつの間に来たのか、背後で仙之丞の声がした。
「若殿に…取次いで参りましょうか?」
「うむ…」
「右近様は藤江様のお相手を」
右近は渋々うなずきながら、
「仙之丞、惣一郎様が逐電せぬよう、しっかり首根っこを押さえて参れ」
「かしこまりました」
仙之丞は含み笑いで一礼すると、摺り足で去っていった。

 「やれやれ…」

 お牧の方の腹心である藤江の来訪。
右近や惣一郎にとって楽しい話であるはずはなかった。

(*諸白/もろはく:清酒のこと)

つづく


「叢雲」4「白牡丹」2
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壁紙は「kigen」さんからお借りしています。


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