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藤江の来訪から数日後。右近は惣一郎に藩邸で正式に役目につきたいと申し出た。
「何じゃと?」
側に控えていた仙之丞と竹弥が息をのむほど、惣一郎の形相が一瞬にして変わった。
「身供の側使えでは不服か? 家督したあかつきには要職につけると申しておる! それまで何故待てぬ?」
「惣一郎様…。このままでは私の立場がござりませぬ」
「なに?」
「…奥方を上屋敷に残したまま、若殿は中屋敷で寵臣と男色に耽っておられる。…世間では斯様に言われておるらしいですが」
「ふん…言わせておけばよいではないか? 代々将軍家でも男色なぞ珍しくもない」
「私がそれでは困るのです。後々藩邸でも軽く見られますゆえ…」
右近は心の揺れをひた隠し、あくまで淡々と語った。
「そのようなこと!」
「中間や小者にまであれこれ噂される私の気持など、若殿は少しもおわかりでない」
これは偽りだった。少しでも右近に好色な目を向けたものは、こてんぱんに道場で打ちのめしたゆえ、今では誰も怖がって滅多なことはいわない。
だが、中屋敷の者たちはともかく、上屋敷でこんな噂がはびこってはまずい。
惣一郎が家臣たちの軽蔑を買うようになってはお終いだ。
「どうか…お聞き届けください」
右近は畳に額をつけんばかりに、平伏した。
惣一郎は答えなかった。
否とも応とも、ひとことも言葉を発しないまま、頬をこわばらせて部屋を出ていってしまった。
*
「やはりだめか…」
思わず背中で溜息をついた右近に、
「右近様…」
仙之丞がおずおずと声をかけた。
「少しお庭を歩きませぬか?」
「あ、ああ」
何事かと訝りはしたが、拒む理由もなかった。
ふたりは履物を用意させ、濡れ縁から庭に出てそぞろに歩き始めた。牡丹の咲き乱れる一角が目にとまり、自然とそちらに足が向いた。夕暮れ時の柔らかな風に吹かれ、紅白の花がゆうるりと重たげに揺れていた。
ふたりは東屋で床几(しょうぎ)に腰を降ろした。仙之丞は膝の上で両手を組み、神妙な顔つきで切り出した。
「右近様、さしでがましいようですが…」
言い澱んだ仙之丞を、右近は目で促した。
「右近様のおっしゃることは、ごもっともと心得まする。なれど、いましばらく…どうか藩邸へ戻るなどとおっしゃらず、若殿の望み通りにさせてあげて下さりませぬか?」
「…仙之丞。私は何もその…若殿のお側を離れるつもりではない。ただ、このまま惣一郎様が中屋敷で好き放題などと噂がたってはまずい。藤江殿の言うことにも一理あるとおもうた…」
仙之丞は小さく首を振ると、
「若殿は、右近様が国許へ戻られてから二年あまり…右近様が国許でのお役目を終え、ふたたび江戸に出府なさる日を一日千秋のおもいで待っておられました」
「仙之丞、それは私とて…」
わかっておると言いかけたところを、ふたたび仙之丞に遮られた。
「いえ…おわかりではありませぬ」
「仙之丞…?」
右近に滅多に異を唱えない仙之丞が、やけにきっぱりと言い放った。
「昔は…派手で放蕩三昧だった若殿が、ぴったりと悪所通いをお止めになりました」
「うむ…結構なことではないか」
ひと事のようにうなずく右近に、仙之丞は切々と訴えた。
「右近様が国許へ戻られたとき、お淋しさのあまり、また元の乱れた生活に戻られるのではと、我々家臣一同、懸念したものです」
「仙之丞…」
「なれど、惣一郎様はご立派でした。むしろ身を慎み、絵の制作に励まれるかたわら、上屋敷におられた頃は、時には堀田様(隠居した前留守居役)をお呼びになり、江戸城内での儀式典礼など、将来家督したときの心得として、色々教えを乞うておられました」
「あのお方が…左様なことを?」
流石にこの話は意外だった。
仙之丞はこくりとうなずいて続けた。
「右近様は藩邸で噂のたつのを気にしておられますが…」
「あたりまえだ!」
「それならもう遅うござります」
仙之丞は明るく言い放って破顔した。右近は色を失った。
「『奥』はもちろん、重臣方もおおかた御存知でしょう」
「…やはりそうなのか」
青菜に塩のような右近を見て、仙之丞が気の毒そうに微笑んだ。
「なれど、惣一郎様はいずれ藩主になられる方ですし、右近様を寵愛したくらいで誰も文句は言えませぬ」
「そ、そういう言い方は止めてくれぬか…」
仙之丞からも『寵愛』などといわれては、耳鳴りがしそうであった。
「よいではありませぬか? かの柳沢美濃守様とて、綱吉公の閨に侍っていたことなど、日本中が知っておりまする」
「日本中になど知られてたまるか!」
右近は思わず拳を振り上げてしまった。
「右近様は堂々としておられればよいのです」
仙之丞に胸を叩いて請け合われても、素直にはうなずけぬ。
「それに…」
まだ何かあるのかと右近が見上げれば、
「御心配なさらずとも、惣一郎様は世嗣としての自覚を十分にお持ちです」
「それは先程の話でも相分った…なれど、綾姫さまのことは、私とてこのままそしらぬ顔はできぬぞ…」
溜息まじりに首を振る右近に、
「わかっています。お世継ぎさえできれば、誰も右近様のことをとやかく言いますまい」
「仙之丞…」
右近は言葉に詰まった。綾姫には失礼きわまりない話だが、少なくとも惣一郎にとっては一番平和な解決策のはずだ。
仙之丞は賢し気な瞳で続けた。
「いずれ和子ができますれば、惣一郎様も和子の母君として、綾姫様を大切になさるでしょう…」
「御事の言う通り、何もかもうまくいくとは限らぬが…」
「いきますとも」
邪気のない笑顔で請け合う仙之丞。
内心ではいくぶん首をかしげながらも、つられて右近も苦笑した。
「承知した。いますぐ藩邸で役目につきたいというのは撤回しよう…。本音を言えば、無役のうちに少々やっておきたいこともある。挨拶にいかねばならぬところもあるし…」
江戸へ出てきたばかりの頃は余裕がなかったが、精神的に落ち着いた今、右近は一度田沼(意次)邸へ挨拶にでかけたいと思っていた。学問所で知り合った知己とも旧交をあたためたい。
ようやく納得して微笑んだ右近に、
「ありがとうございます」
仙之丞も安堵したように肩の力を抜いた。
「なれど、私が藩邸に戻ることをお許しいただけぬのなら、せめて惣一郎様に…もっと頻繁に藩邸にお帰りになるよう…御事からも申し上げてくれぬか?」
「ええ…それがよろしいかと思います。ともかくお牧の方様や綾姫様に顔をお見せになって、時々お泊まりになれば随分あちらの気持も和らぐのではありまぬか?」
「仙之丞…」
「は」
「御事も気苦労が多いのう?」
「…右近様ほどではござりませぬ」
仙之丞は童顔をくしゃりとゆがめて笑った。
「まこと…立派な小姓頭になった」
「私は…惣一郎様と…右近様のお幸せを願うのみです。おふたりのお側に仕えるのが私の生き甲斐ですから」
「そう…か」
「このまま…ずっと江戸にいてくださりませ、右近様」
右近は気恥ずかしげに微笑んだ。
*
結局のところ、仙之丞も女を知らない。呑気な小姓頭殿は女子の恐ろしさがわかっていない、と堀隼人丞あたりが警告しそうである。綾姫はお牧の方ほど気性は激しくなさそうだが、内にこもるタイプとすれば、それはそれで厄介だ。
ともあれ、舞い上がっている惣一郎はもちろん、右近でさえも今はそこまで考えが及ばなかった。
*
「斯様な所で…ふたりで何をこそこそしておる?」
床几に腰掛けぼんやり夕日を眺めていた二人に、背後から声がかかった。
「惣一郎様…」
振り返れば、二間ほど離れた小道のむこうから、惣一郎が腕組みをしてこちらを睨んでいる。
右近はくすりと笑みを洩らし、
「夕風が心地よいですぞ。若殿もこちらへおいでなされませ」
惣一郎を誘うと、仙之丞はすかさず席を空けた。
右近も同じく立ち上がろうとしたが、
「そのままでよい」
と、惣一郎が制した。
惣一郎は東屋に入り、右近の隣に腰を降ろす。
「先日の鰹は美味であったな…」
話したいことは他にあるくせに、惣一郎はこんな無難な話題で切り出した。
右近は御意、とうなずき、仙之丞はぶっと吹き出した。
「天満屋も喰えない男ですが、そういうところは気がききまするな」
仙之丞は惣一郎に調子を合わせながら、刺身や中落ちの煮付けの味を思い出し、ぴしゃりと舌をならした。 音を聞き付けた右近が、
「そなた、いつからそんなに食い意地がはるようになったのだ?」
「え、私は…」
もごもごと口ごもる仙之丞に
「酒の味を覚えてからだろう…のう、仙之丞?」
惣一郎がわずかに唇の端をゆがめて笑った。
ふわりと座が和んだところで惣一郎が呟いた。
「右近…ここの暮らしは退屈か?」
惣一郎の問いに、右近は一瞬返事に迷った。
しばしの沈黙が流れる。
屋敷の土塀のはるか向こうから、
『萌黄のかやあ』
と、池之端界隈をゆっくり歩く蚊帳売りの声が聞こえてきた。
「いえ…そのようなことは決して」
「本心か…」
「はい」
惣一郎は前方の築山に目をむけたまま呟く。
「藩邸で役目につきたいなどと申すから、余程退屈なのかと思うた」
「若殿」
「そなた、国許では随分と激務をこなしたのであろう?」
「それは…」
「当分ゆるりとしてもばちは当たらぬと思うが?」
右近は目を伏せながら、国許での緊張と不安の日々を思いだしていた。
惣一郎は続けた。
「…藩邸でお役といっても、そなたにつまらぬ仕事をさせるわけにはいかぬ」
「…惣一郎様」
「時が来るまで…今しばらく辛抱せよ」
確かに…外聞を気にしすぎて少し焦っていたようだ。仙之丞に言われたように、尻奉公の何のと陰口をたたかれようが、主君の引き立てて要職についてしまえばこちらの勝ちなのだ。
惣一郎の伽をしていたことを城下にばらすと内藤帯刀に脅されたとき、なぜあれほどまでにうろたえたのか。今思えば、家中に知られるのを恐れたというより、結局は誠之進に知られたくなかっただけなのだ。
それももはや…。考えても詮無き事。
「…承知いたしました」
右近は心の中で乾いた笑いを洩らし、静かに首肯した。
最後に誠之進のぬくもりに触れたのは…去年の夏だった。今町の海辺での映像が、押し寄せる波のごとく瞼の裏に蘇ろうとした。
と、その時、惣一郎の手のひらが、ぽんと右近の膝の上に置かれた。
暖かい、膝の上の惣一郎の手は、確かな存在感をもって右近を今の現実に引き戻した。
「上屋敷へは時々顔を出す」
「惣一郎様?」
右近は思わず息をのみ、主人の横顔をまじまじと見つめた。
「そなたが周りの者にとやかく言われぬよう…身供ももう少し気をつけよう」
惣一郎は照れたように呟くと、右近のほうを向いた。
「惣一郎様…」
『それゆえ、決して側を離れるな…』
右近をまっすぐに見据えながらも、惣一郎の瞳の奥は懇願するような色をたたえていた。右近は黙って惣一郎の手に己の手をそっと重ねた。
(そうだ…ここで生きると決めたのではないか…)
右近は己に言い聞かせるように、静かに胸の中で唱えた。
『萌黄のかやあ』
蚊帳売りの声が先程より遠くなった。
いつの間にか仙之丞の姿はなく、惣一郎と右近は並んで床几に腰かけ、茜色の空を眺めながら蚊帳売りの声に耳を傾けた。
やがて夏が来て、秋が巡り…。また昔のように中屋敷の暮らしがくり返されるのだ。
世嗣としての勤めを自覚しながらも、惣一郎は夢にまでみた右近との日常を、決して手放す気はなかった。
右近も惣一郎の想いに応えて、側を離れまいとおもう。
少なくとも、次の嵐が吹き荒れるまでは。
白牡丹 了
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