七の巻
「葵」1




by 戸田采女

 山や野が鮮やかな萌黄色に覆われる季節となった。梅雨が訪れるまでの一時、高山城下にはほのかに紗のかかった青空が広がり、清清しい風が吹き抜けていた。

 夏に向けて木々や草花が勢いを増し、街や田畑にも活気あふれるこの時期、表面上は日々の御用を粛々とこなしながら、誠之進は江戸の堀田又座右衛門からの返書を今日か明日かと待ちわびていた。三郎も「本田家との養子縁組」という、己が運命を左右する一大事に心を奪われながらも、これまで通り藩校へ通い、学問・武芸に励んでいた。

 誠之進は怪文書の件、はじめは三郎に話そうか話すまいか迷った。夜も眠れぬほど思い悩んだのだ。できれば斯様な悪意の存在を知らせたくはなかったが、内藤帯刀がほとんどの重臣屋敷に投げ文を行った以上、おそらく噂は子弟の耳に入っているだろう。内容が内容だけに、ほとんどの家ではきびしい箝口令をしいているだろうが、中老・奥野将監の息子あたりから、藩校の生徒に広がる可能性もあった。

 三郎ももはや十六歳。

 誠之進はこれまであらゆる苦難から三郎を守ろうと、常に付き従い、楯となってきた。だが十六歳となり元服を来年に控えた今、三郎も降り掛かる火の粉を自分で払わねばならぬ時もある。

 迷った末、誠之進は三郎に包み隠さず今の状況を語ることにした。
堀が西の丸を訪なった二日後、誠之進は夕餉の後、離れで堀から渡された巻き紙を三郎に見せた。

 「なんじゃ…これはっ」
悪意に満ちた怪文書。誠之進の三郎への想いを「劣情」と言い切った文面に、三郎は激怒した。
「誠之進、これを書いたのは帯刀か?!」
「…御本人かどうかはともかく、内藤殿の指示で書かれたものに間違いはないと」
「誠之進…っ」
「申し訳ござりませぬ…、若を斯様なことに巻き込んでしまうとは」
「何をいうか、そなたが悪いのではない」
三郎は怒りに頬を紅潮させ、膝の上の拳を固く握りしめている。

「われらは疚しいことなど何もない!」
「若…」
「なぜじゃ…藩校では手拭いを換えて契りあう者がたくさんおるではないか? 何ゆえ、そなたと私が契りおうてはならぬ?」
「三郎ぎみ、それは…」
「誠之進…口惜しいではないか…っ」
「それは私とて同じにござります…」
「帯刀め、許さぬ!」
「若?!」
「そなたの忠義や愛情を、劣情などという言葉で貶めるとは…」
涙ぐんだ三郎の声はかすれていた。
「三郎ぎみ…」
誠之進とて三郎同様、内藤帯刀には憤っていたが、今は泣いて悔しがる三郎への愛しさがつのり、おもわず微笑を浮かべていた。
誠之進のそんな様子に、三郎は気恥ずかしそうに居住まいを正した。
「いずれにせよ…、そなたと私の関係は…政(まつりごと)にからんで、色々な憶測をよぶのであろうな」
「そこまで…お考えとは…」
「誠之進…私は如何すればよい?」
「若は…何も御心配なさらず、今まで通りにお過ごしください。ただ…」
「…わかっておる、誠之進。ふたりのことは、断じて認めてはならぬのだな」
「御意…」
誠之進は恐れ入ったように平伏した。
「案ずるな、私とて芝居のひとつやふたつ…。そなたを守るためなら何でもする」

 最近、三郎はよくこんな眼をするようになった。わずかに憂いを含んだ、大人びた眼差し。

 無邪気に誠之進のあとを追い、誠之進に頼り切っていた三郎も愛しかったが、今の三郎はまた違った意味で誠之進をひきつけてやまなかった。


 誠之進は怪文書の件を長年の親友であり、三郎の馬廻り頭、吉田小兵太の耳にも入れておいた。藩校で剣術師範代も勤める小兵太は、週四日、三郎とともに藩校に通っている。誠之進と三郎のおかしな噂が流れていないか、それとなく目を光らせてくれるよう頼んでおいた。




 四月も終わりに近付いたある日の午後、今町の北前問屋、中村屋喜兵衛が西の丸に誠之進を訪なった。

 「中村屋、よう参ったのう」
去年の夏、御用金の件で力を借りて以来、誠之進と中村屋はお互いに好感を抱き、以後親しく付き合っている。親子ほど年もはなれ身分も異なるふたりだが、どこか波長が合うのだ。

 春を待って上方への航海に出た中村屋の船が、今月の初め今町に戻ってきたという。京から持ち帰った紅や友禅の太物を、中村屋みずから誠之進の母と妹にとたずさえてきた。
「おお、これはかたじけない。母上も志保も大喜びじゃ…」
京紅や太物を手にはしゃぐ志保の姿を思い浮かべ、誠之進は相好を崩した。
「ほんの気持ちばかりの品にはござりますが…」
中村屋は品のいい笑みを浮かべてうなずいた。

 「して中村屋、本日は何用で?」

 中村屋の来訪は歓迎するが、誠之進は正直不思議に思っていた。中村屋には如月の終わり、誠之進が今町に赴いた時に会って話をしたばかりである。わざわざ城まで訪ねてくるとは、今町で何事か出来したのだろうか…?

 誠之進はいぶかりながら相手の返事を待っていた。

 「実は誠之進様、本日は私、隠居の御報告に参上いたしました」
「なに?」
予想外のひとことに、誠之進は目を見開いた。
二月の終りに会ったときには、そのような話、ひとことも出なかったではないか?

 中村屋は居住まいを正して深々と一礼した。
「北前問屋・中村屋は来月から息子、米太郎が主人となりまする。今後とも商いに励みますゆえ、どうぞよろしくお引き立てのほどを‥」
「それは心得たが、中村屋、見たところ、おぬしまだまだ壮健のようだし、なにゆえ今隠居などと?」
誠之進は率直に疑問を口にした。

 すると、初老の紳士の瞳が一瞬悪童のように煌めいた。

 「店は息子に任せますが、私も身軽になって最後の一花をさかせたいと…いささか無謀な企てを」
「なんじゃと?」
「北前問屋として三十年以上商いをしながら、蝦夷・薩摩を見ずに終わるわけにはいかぬでしょう…」
「なに…本気か、中村屋?!」
誠之進は思わず腰を浮かせていた。
「もう一度、船に乗ろうと思います。息子から隠居代として五百石船、一隻をゆずりうけます。夏の初めに、まずは秋田から蝦夷へ…」
「おい…」
「初航海でどれほどの収穫があるかわかりませぬが、まずは現地をこの目でみて、〆粕(油を絞ったあとのにしん。肥料にする)や昆布でも仕入れてこられれば上等かと」
「中村屋!」
「島崎屋さんに刺激されましてね…。私の中にも海の男の血は流れておるのです」

 照れくさそうに微笑む中村屋を前に、誠之進も我が事のように心踊った。

 「つきましては、蝦夷に拠点を設けて戻りましたあかつきには、中村屋の船にも永代渡海免許をいただけないものかと」
ふたたび丁寧に頭をさげる中村屋に、誠之進は一も二もなく承諾した。
「よう決心してくれたぞ。おぬしが範をたれることで、若い者も後に続くやもしれぬ」
「…ならば必ず、生きてもどらねばなりませぬなあ」
「あたりまえじゃ!」
ふたりは陽気な笑い声をたてた。

 「…いつか、私も船にのせてくれ」

 「ご所望とあらば、よろこんで…」

 遠い海原に思いを馳せるかのような誠之進に、中村屋はしっかりとうなずいた。




 近年、溝口家の政敵、内藤家と癒着する廻船問屋・島崎屋が、老舗をしのぐ財力と影響力を持ちつつある。溝口主膳を始めとする重臣たちの間では、島崎屋がおさめる御用金は捨てがたいが、密貿易など黒い噂も多い島崎屋に、藩をあげて肩入れするのはいかがなものか、と懸念の声も出ていた。

 昨年、島崎屋に五千両という御用金を命じた主膳でさえ、あれは非常事態をしのぐ急場の策。正直なところ、今後も藩が島崎屋に依存し続けるのは、できれば避けたいと考えていた。

 たとえば薩摩藩など、他藩でも抜け荷が行われているのは公然の秘密だったが、高山藩はなんといっても薩摩ほどの力はない。幕府隠密にでも嗅ぎ付けられては厄介なことになる。田安の御前という後ろ楯はあっても、やはり公儀に目をつけられるような仕儀に至っては困るのだ。

 それを踏まえて、去年、誠之進は主膳の名代として、当時の勘定吟味役・櫻田右近と今町へ赴き会合を開いた。主だった町人の代表を集め、商いを広げたい者、海運業を新たに志そうという者を募り、永代渡海免許の発給をはじめ、藩としても様々な後援をする用意があると語った。

 その呼び掛けに、今回、老舗の北前問屋・中村屋が応じてくれたわけだ。海運業振興策の立案者、親友の右近の努力が実を結んだともいえよう。

 だが朗報を耳にして素直に喜ぶ誠之進を前に、
「実は溝口様、本日はもうひとつお願いがあって参りました」
中村屋がいささか重たげに口を開いた。
「おお、遠慮はいらぬ。申してみよ」
「は…。では申し上げます」
「うむ」
「さる筋から聞いた話によると、今町の商人に今年もまとまった額の御用金をお命じになるとか…。それはまことでございましょうか?」
「なに…?」
誠之進の鳶色の瞳がおおきくなった。 

 昨年は二年続きの凶作で非常事態ということで、今町の商人たちは皆、涙を飲んで多額の御用金を納めた。

 去年の夏、櫻田右近とともに今町の商人と会合を開いた時点では、『御用金』は去年に限っての話と言われていた。もちろん誠之進もそのつもりだった。

 しかしながら昨年末、右近が吟味役を辞し、今年に入って勘定方で若干の人事異動があり、去年とは様子が変わってきているという。中村屋来訪の目的は誠之進にそれとなく耳うちし、正確な情報を探ってもらうことにあった。

 「溝口様にこのような事を申し上げるのも何ですが、あわや飢饉と思えばこそ、今までの儲けを吐き出して皆協力いたしました。冗談ではなく、金蔵が空になった者もいたはずです」
「うむ…そのほうらには雑作をかけた。だがおかげで領内の用水路の普請が完成し、今年は米どころの名に恥じぬ豊作が期待できそうじゃ。今町には足を向けて寝られぬと思うておる」
「ありがたきおおせにはございますが、我ら商人の金も無尽蔵ではござりませぬ。理由もなく御用金を継続されてはとてもやってはいけませぬ…と、ほとんどの者がこう申しております」
「わかった。この件、早急に勘定方の知人に確かめて返答しよう…」
「よろしくお頼み申し上げます」
「うむ…」

 現在の勘定奉行・梶田氏は普請奉行時代から賄賂を受け取らぬことで有名だった。右近も彼を真面目で清廉な人柄と見込んで、吟味役を辞し江戸へ戻ったはずだ。

 奉行は引き続き梶田が努めている。人の異動があったとすれば、その下の役人たちの話かもしれない。誠之進は明日登城したときにでも、早速、右近の元部下、勘定方の筧真之介に話を聞いてみようとおもった。




 中村屋は今晩城下の旅籠に泊まるという。茶屋で一席設けてくれるというので、誠之進は暮れ六つすぎに、吉田小兵太でも連れて出かけようと思っていた。

 玄関で中村屋を見送ったのち、さて、三郎にどう報告しようかと思案しながら廊下を歩いていると、誰かが入れ代わりに玄関で訪いを告げた。
肩ごしに振り返ると、見覚えのある中年の侍が裃姿で立っていた。
「立花どの…?」
「おお、誠之進様! お城で尋ねましたら、すでに下城されたと聞きましたので…」
堀家の用人、立花権之介だった。
何やら慌てた様子で歩みよると、
「誠之進様、主人、堀隼人丞が火急の用件につき、至急当家までお運び下さいと申しております」
「なに?!」

 江戸から返書が来たのか?!

 誠之進は顔色を変えながらも、
「承知した。すぐにうかがおう」
努めて冷静な声音で応じた。

 誠之進は勧められるまま、立花の用意してきた駕篭にのり、堀の屋敷を目指した。

つづく


「白牡丹」4「葵」2
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壁紙は「kigen」さんからお借りしています。


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