七の巻
「葵」2




by 戸田采女

 人払いした茶室で、堀は心なしか蒼ざめた様子で誠之進を待っていた。

 用人の立花に案内され、誠之進は庭づたいに茶室へ向かった。にじり口から入ると、亭主の席にいる堀は無言でうなずいて迎えた。

 着座した誠之進は緊張しながら堀の第一声を待つ。

 堀はようやく重い口を開いた。
「誠之進…とんでもない埃がでおったぞ…。堀田様からの書状…目を通してみよ」
堀が懐から取り出した書状を、誠之進は押し頂くようにうけとった。
誠之進は緊張した面持ちで、幾重にもたたまれた分厚い書状を広げていく。

 読み進むにつれ、紙を捧げ持つ誠之進の手が微かに震え始めた。

 「こんなことがまかり通ってよいわけがない。三郎ぎみを侮辱するにもほどがある。まこと…名家の出といいながら御正室様は蛇のような女子じゃ。殿がけむたがるのも当然じゃ…」

 堀の呟きを遠くに聞きながら、誠之進は頭から血の気がひいていく思いがした。

 衝撃に言葉もない誠之進を前に、堀は独白のように続けた。

 「人には軽々しく言うまいと思うていたが…昔、江戸詰めの頃、奥右筆をつとめる男と親しゅうなってな。奥のことを色々と聞かされた。お牧の方様は昔から悋気がひどくてな。殿がきまぐれに情けをかけた奥女中に、壷を壊したなどと濡れ衣をきせ、ひどい折檻をしたそうじゃ。一方、気にいった者には目をかけてくださるが、自分の厚意を無視して相手が勝手なことをすると、ひどくお怒りじゃった。そういうお方が私に妻を世話しようとおっしゃった時には、思わず身震いがした。もうすでに妙を室に迎えようと心に決めておったゆえ…。それが知れたら妙にどんな類が及ぶかと、生きた心地がせなんだぞ…」 

 「左様なことがございましたのか…」

 応えながらも誠之進の心はそこになかった。

 自分が江戸詰めの頃、お牧の方とはさほど接触がなかった。ゆえに奥の噂もそれほど誠之進の耳には届いていなかった。三郎を生んだおひろが、城内で不可解な目にあったり、食事に毒を盛られたらしいという話も、国許へ戻ったのち、父・主膳から聞かされたのだ。

 誠之進よりはお牧の方と接する機会も多く、奥右筆の男と懇意だった堀は、誠之進よりもご正室の人となりを知っていた。ゆえに、今回の養子縁組の話が田安家の口ききと知ったとき、何ともいえぬきな臭さを感じたという。

 お牧の方がなぜここまで三郎を疎んじるのか。
他藩へ養子に出すだけでは飽き足らず、なにゆえ三郎をここまで辱めようとするのか?
誠之進には到底理解できなかった。
おひろへの悋気はまだわかる。
身分の低いおひろが殿の寵愛をひとりじめにしたことが許せぬのであろう。
しかし、子供に罪はないではないか…。
お牧の方自身も惣一郎という子を持つ母のはず。
なにゆえ三郎にここまで辛くあたらねばならぬ?

 お牧の方が信輝公の寵を失った理由が、今度という今度は誠之進にも嫌というほどわかった。母親の斯様な企みを知れば、息子である惣一郎も深く傷付くだろう。

 誠之進の心を読んだかのように、
「惣一郎様の御気性が殿に似ておってよかったな…」
堀が深い溜息をついた。
「まことに…」
誠之進も苦々しい思いでうなずいた。
「ともかく誠之進、これではっきりした。三郎ぎみに対する斯様な仕打ち、断じて見過ごすわけにはいかぬ。一刻もはやく殿にお知らせしよう」
「わ、私も、御一緒に!」
「よし、明日の朝一番にお目にかかれるよう、青木殿(信輝公の用人)にお取次ぎ願おう」
「かたじけのうござる」

 誠之進は堀の前に深々と頭をさげた。


***


 弥生の終わり。
江戸・一橋通小川町。高山藩・上屋敷。

 お牧の方は何やら最近機嫌がよい。御正室のご機嫌よろしければ、奥女中たちがとばっちりを受けることもなく、奥全体が平和な空気に満ちていた。

 八重桜もすっかり散り終わった頃ある日、お牧の方の兄、田安家当主・慶久が上屋敷を訪なった。

 庭園の一角にある東屋で、お牧の方、田安慶久、留守居役の岩田善次郎が顔をそろえ、野だてと洒落こんでいる。側には茶坊主とお牧の方の腹心、お年寄の藤江が控えているだけで、東屋の周囲に人の気配はない。誰も東屋に近寄ってはならぬと、藤江が奥女中たちにきつく申し渡していた。

 お牧の方は確か内藤帯刀と同じくらいの年であったが、皺もまだほとんどなく、若い頃はさぞかし美貌であったろう思われる。兄の田安慶久は鬢に白いものこそ混じっていたが、気力体力ともにまだまだ衰えを知らない。ふたりは異腹の兄妹であったが、家中では昔から仲睦まじいことで有名だった。

 結城信輝に輿入れ後も、牧は実家との縁が薄れるどころか頻繁に行き来していた。幕閣での兄の権威をかさに、藩政にも口を挟もうとする牧に、家中の者の多くは内心鼻白んでいた。誰も恐ろしくて声に出してはいわないが、そもそもこの婚姻、牧のたっての願いで田安家から申し入れがあったという。寺院参詣のおり、偶然であった信輝公を牧のほうが見初めたらしい。

 お牧の方は茶坊主が点てた茶を、京紅をひいた唇で優雅に飲み干すと、
「ほほほ…三郎も果報ものよな。旅籠の息子が五万石の藩主とは…。本田家に入ったあかつきには、舅殿にしっかり仕えるがよい」
鈴の音のような笑い声をたてた。
末席に控える岩田がおもねるように相づちをうった。
「それはもう、たっぷり守役殿に仕込まれたようですから…。本田様もさぞや御満足なさることでしょう…」
「ふっ。殿をたぶらかした下賤の女の息子には似合いの役目じゃ」
「守役を誘惑し己の意のままにしようとは、恐れ入った若者じゃのう…」
田安慶久がさも可笑しそうに喉をならした。
勢いづいたお牧の方は、
「元服を待って姫と仮祝言などといわず、せっかくの前髪を落とす前に、さっさと忠直殿にくれてやるがよい」
「それもそうでござりますな。さっそく国許の奥野様に、話をすすめるよう動いていただきましょう」
「おお、それがよかろう。本田家でも待ちかねておることだ…」

 上機嫌の二人を前に、
「ところで御前、お方様、内藤帯刀様の御用部屋への復帰の件、どうぞお力添え賜りますよう、重ねてお願い申し上げまする」
岩田は今が好機とばかりに熱心にたのみこんだ。
「おお、言われるまでもない。奥やわらわの事を常に気にかけてくれるのはあの男だけぞ。帯刀こそ誠の忠臣。いつまでの主膳なぞの好きにはさせぬ」
「岩田、案ずるな。帯刀にはまだまだ働いてもらわねばならぬ。余も頼りにしておるのだ」
「御前、まことに心強いお言葉、この岩田、しかと内藤様に伝えてまいりまする」
「うむ。ところで帯刀が江戸へつくのはいつごろじゃ?」
「まもなく大坂を出ると、早飛脚が知らせて参りましたので、途中の湊に寄ったとしても、あと十日ほどで到着するのではと思われます」
「左様か。では帯刀が江戸に入り次第、すぐにも会おう。岩田、段取りをつけておけ」
「ははっ」


***


 駿河横河藩、本田家当主忠直は高齢を理由に、この十年間、一度も国入りしていない。幼いるり姫も江戸にいる。藩政はすべて国家老にまかせきりで、江戸で勝手きままに暮らしている。若い頃、いっとき衆道に耽溺したが、成人後は正妻のほか、側室からも合わせて四男二女をもうけた。しかし、ほとんどの子が二十歳までに夭折し、先年、嫡子にも先立たれている。近ごろは昔の性癖に戻ったのか、もっぱら少年を寵愛した。

 だが小姓を侍らす程度ならまだよかったが、年甲斐もなく、若衆に入れあげて陰間茶屋へ通ったりと、家臣団としてはさすがに外聞が気になり始めた。家中から見目麗しい若者を側仕えに、と探しても、忠直の眼鏡にかなうものがなかなかおらず、江戸家老も留守居役もほとほと困っていたのだ。そこへ、高山藩・留守居役の岩田善次郎が耳打ちした‥。

 『忠直様にお仕えするのに格好の若者がおりまする』

 高山藩結城家の三男をるり姫の婿という名目で迎えてはどうかという。己の主家の若君を、忠直の閨の相手に差し出そうというのだ。最初話しを聞いたとき、横川藩留守居の吉川は岩田が気でもふれたかと思ったが、詳しく話をきくうちに、御家騒動がらみの派閥争いが見えてきた。正室お牧の方が三郎を厄介払いしたがっている。それに乗じる重臣たちがいて、お牧の方の実家、田安家も了解しているという。

 『ひとたび鄭重に養子として迎えてしまえば、後はどうにでもなるだろう。忠直殿も既に高齢。閨のつとめといっても数年のことだ。いっとき我慢していれば、正室に疎まれている部屋住みの身から、本田家五万石の藩主におさまれるのだから、三郎にとってもそう悪い話ではなかろう…』

 田安慶久にそこまで言われては、本田家としても何事も御前のお心のままに、と任せるのが得策と思われた。


つづく


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壁紙は「kigen」さんからお借りしています。


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