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時は十日ほど戻る。
江戸へ着いて以来、まずは江戸の街をとことん見てまいれ、との父の命もあり、弥一郎と彩之介は叔父・嶺次郎の案内で、連日のようにお江戸見物に出かけていた。
ちょうど昨日、四月二十五日から、端午の節句を控えた五月人形の売り出しが始まっていた。有名な日本橋の十軒店では、往還に小屋を構え、甲人形、菖蒲太刀、幟などを商っていた。
内藤家が滞在している天満屋の霊巌島の寮で、年よりも幼く見える彩之介は、店の者からも大層かわいがられていた。誰が買ってきたのか、おそらくは彩之介のためにと、鯉のぼりが屋根の上に翻っている。当の本人は『私はもうそのような童子ではありませぬ』と照れながらもどこか嬉しそうであった。
叔父・嶺次郎の案内する場所は、いずれも歓楽街ばかりで、実のところ弥一郎はいささか食傷気味だった。今日も昼過ぎから、両国へ『おででこ芝居』を見に行くのだと、嶺次郎はふたりを連れ出した。
永代橋を見たときもそうだったが、彩之介は両国橋界隈の賑わいに圧倒され、興奮を隠せない様子だ。
三人は近くで駕篭を降り、徒歩で両国橋を渡った。
「弥一郎様…いったいいずこからあのように人が湧いてくるのでしょう…」
文字どおり、目を丸くして彩之介が弥一郎を見上げた。
橋の両側にある広小路には大道芸人も多数出ており、取り巻く群集から喝采をあびていた。
「川開きともなれば、もっと人が集まるそうじゃ。…叔父上、そうでしたな?」
「ああ、来月の二十八日からじゃ。大小の涼み船が繰り出し、それはそれは、びっくりするような賑わいだぞ、彩之介」
「それは、屋形船とかいう船にござりますか!」
「なんじゃ、そなた大坂におったくせに、屋形船にのったこともないのか?」
嶺次郎の素朴な疑問に、彩之介はふと目をふせて押し黙ってしまった。
「叔父上…」
察した弥一郎がやんわりと叔父をたしなめた。
そんな弥一郎の気づかいを、今度は彩之介が察し、心配をかけまいと笑顔を見せる。
「私は…大坂には一年しかおりませんでしたし、外出は叶いませんでしたから」
(あたりまえだ。陰間茶屋に売られてきた彩之介が、川遊びなどできるわけがなかろう?)
「彩之介…」
無神経な叔父への非難は胸のうちに納め、弥一郎は彩之介に柔らかく微笑みかけた。
「では、川開きの頃、そなたをもう一度ここへ連れてきてやろう」
「まことにござりますか!」
華やいだ声をあげる彩之介に、
「そ、そうじゃな。天満屋にでも申し付けて、ぱーと船を借り切ってだな…」
嶺次郎も己の失言に気付いたのか、彩之介の機嫌をとるように肩を抱いて言った。
「それも楽しゅうござりますな、叔父上」
弥一郎がくすりと笑って引き取った。
「おう、たまにはそなたとも意見があうな」
「はい、たまには」
三人は顔を見合わせて明るい笑い声をたてた。
橋の中程まで進むと、弥一郎が広小路の一角を指差した。
「彩之介、ほれ、あそこで面白そうな見せ物をやっておるぞ」
彩之介も前方に目を凝らし、
「何やら、珍しい生き物のようにござります」
「よし、早う見に行こう」
「はい!」
弥一郎は彩之介の手を取ると、嶺次郎を残し、一足先に雑踏をぬって橋を渡っていった。
「…なんとまあ、初々しいことよ」
二人を見送る嶺次郎は、眉尻を下げて苦笑した。
*
夏ともなれば、朝の青物市、昼の見せ物、夜の納涼船で、あわせて一日三千両が落ちると言われた両国。
川開きには一月ほど早かったが、初夏の陽気に誘われて広小路界隈は大変な賑わいをみせていた。
弥一郎たちは動物や人形の見せ物小屋を見物し、おででこ芝居を見て、土産物の絵双紙を買った。帰路に着く前、水茶屋で団子片手にひと休みとあいなった。いかにも俗な観光ルートではあったが、好奇心いっぱいではしゃぐ彩之介につられ、弥一郎も笑みを洩らしている始末だ。
(彩之介を江戸へ連れてきてよかった…)
あのまま大坂の陰間茶屋に彩之介を置いてきていたら、自分ははげしく後悔しただろう。彩之介を請け出した父の思惑は気になるが、ともかく彩之介を『大和屋』から救いだしたのは正解だった。年相応の少年らしい元気な姿を見るにつけ、弥一郎はまことに心暖まるおもいがした。
あらかた団子を食べおえ、彩之介は行儀よく茶を喫している。
「彩之介」
「はい、弥一郎様?」
「明日は書物問屋をゆるりと見てまわりたい。そなた、供をしてくれ」
「かしこまりました」
黒目がちの瞳を輝かせ、彩之介はうなずいた。
「ならば、儂はお呼びでないな」
つまらなさそうに呟く嶺次郎に、弥一郎は当然です、とにっこりうなずいた。
「ふん、かわいくない」
腕組みをしてあさってのほうを向く嶺次郎を、彩之介が頬にえくぼを浮かべて見ていた。
「さてっ…と」
間合いをはかったように、嶺次郎が軽く手を打って腰をあげた。
「叔父上、いずこへ?」
見上げる弥一郎に、
「そなたら、ここから駕篭で霊巌島へ帰れ。儂は寄るところがあるゆえ」
「叔父上…」
また『子ども屋』か、と弥一郎は呆れたように叔父を見上げた。
大坂以来、さすがに堅物の弥一郎も、叔父の行動が読めるようになっていた。止めても無駄とあきらめもついている。
「まあ固いこというな。何ならおまえもくるか?」
嶺次郎にいわくありげに微笑まれ、
「御冗談を」
弥一郎は一蹴した。
ふと脇を見れば、勘のいい彩之介が、顔を真っ赤にして嶺次郎を睨み付けていた。
「冗談じゃ、彩之介、怒るな怒るな…」
嶺次郎は扇を出してぱたぱた扇ぐと、高笑いを響かせながら、暖簾をくぐって出ていってしまった。
「では我らは霊巌島へ帰るとするか?」
「はい」
若い主従は目を見交わして、照れたように微笑んだ。
*
彩之介はもともと武家の出。幼い時から武家の作法を厳しく躾けられたらしく、弥一郎の小姓として申し分なかった。どこへいくにも影のように付き従い、気ばたらきのできる賢い少年だった。
前身はどうあれ、弥一郎は彩之介を一人前の武家の子として扱うつもりだ。元陰間などと誰にも後ろ指はささせぬ。彩之介自身も色町での暮らしを早く忘れ、一日も早く本来の姿に戻るがよいと思っていた。
無論、弥一郎は彩之介をかわいく思っている。秘かな片恋の相手、三郎に似た容姿も好みだ。弥一郎とて若い男だ。抱きたくないといえば嘘になる。されど弥一郎は身を慎み、頻繁に伽を命じるようなことはしなかった。
弥一郎は彩之介を憎からず思いながらも、結局は三郎の身替わりに抱いたという罪悪感があった。
(国許へ帰ったあかつきには、藩校にも通わせてやりたい…。それまで、剣術は無理でも、学問は私が見てやろう)
贖罪というほどではなかったが、弥一郎は彩之介を内藤家で召し抱えた以上、まことの兄のごとく、できる限り彩之介を慈しんでやりたいと思っていた。
つづく
おででこ芝居:江戸三座以外の小芝居。百日(おででこ)芝居と書くのは、常設ではなく、百日の期限をつけて小屋がけの興行を許されたからだそうですm(__)m
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