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江戸へ出て来て一月足らず。名所はあらかた見物し終え、弥一郎は少々手持ち無沙汰な日々を送っていた。梅雨に入り、外出したい陽気でなくなったのも一因だ。遊び人の叔父・嶺次郎は、金さえあれば行く場所に事かかないようだが、生真面目な弥一郎はいくら好きな書に没頭できるとはいえ、目的もなく江戸に滞在することが、そろそろ苦痛になり始めていた。
父・帯刀は毎日のように出かけ、おそらくは江戸屋敷の者や幕閣の要人に会っている。弥一郎には適当に金を渡し、好きに過ごすがよいとまったくの放任だった。
一度、そろそろ国許へ戻りたいと申し出たが、「せっかくの機会だ、そう慌てることもなかろう」と取り合ってもらえなかった。
そんな中、弥一郎は彩之介に学問を教え始めた。十三歳で茶屋に売られた彩之介は、気ばたらきのできる聡明な少年だったが、勉学は国許の私塾で素読を習ったのを最後に中断しているという。それを聞いた弥一郎は、夕餉の後、彩之介に『論語』の素読を教えるのを日課とした。
「子の曰わく、君子、重からざれば則ち威あらず、学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己にしからざる者を友とすることなかれ。過てば則ち改むるに憚ることなかれ 」
声変わり前のよく通る愛らしい声で、彩之介は一生懸命素読に励んだ。
思ったとおり彩之介はのみこみが早く、『叔父の嶺次郎よりよほど優秀だ』と褒めると、彩之介は頬に薄いえくぼを浮かべて、はにかんだような笑みを浮かべた。
夜も更けたことだし、そろそろきりあげようと弥一郎が書を閉じた。
「今宵はここまでにしておこう」
「ありがとうございました」
畳に手をつき、彩之介がていねいに一礼した。
ふたたび顔を上げたとき、彩之介の瞳がひたと弥一郎をとらえた。
感謝をこめてまっすぐに見つめてくる、黒目がちの瞳。
その瞳に捕らえられる度、弥一郎の胸に甘い痛みが蘇る。
『弥一郎…、ここに「麦秋」とあるが、これは秋を詠んだ詩なのか?』
『いえ、三郎ぎみ。麦秋とは「麦の熟るる時」の意で、晩春から初夏にかけての季節のことです』
『なるほど…薔薇や牡丹が出てくるから、秋の詩にしてはおかしいと思うた…』
『ええ、ちょうど今のような、風薫る季節を差すのですよ』
『弥一郎は物知りじゃなあ…』
『いえ、私なぞ大したことは…』
『…ここだけの話だが』
『はい…?』
『漢詩については、誠之進よりも弥一郎のほうが詳しいやもしれぬ』
『さ、左様にござりますか?』
『うむ。だが…誠之進には内緒だぞ。誠之進やつ、拗ねてしまうからな!』
あれは去年の今頃だったろうか?
たまに藩校の授業が早く終わった日など、書を片手に裏の林で三郎と語り合った、短くも楽しい時間。簡単な漢詩の解釈にすぎぬのに、『誠之進殿より上』と言われただけで、内心すっかり舞い揚ってしまったものだ。誠之進殿が『麦秋』くらい知らぬわけがないものを一。
愚かな…。
懐かしく甘酸っぱい思い出に、弥一郎は我知らず切ない溜息をついていた。
「弥一郎様? いかがされました?」
それを聞き付けた彩之介が、案ずるような瞳で尋ねてくる。
すまなさといじらしさとが弥一郎の胸中で交錯した。
「いや、何でもないのだ」
弥一郎は小さく首を振ると、目の前の健気な少年にやさしく微笑みかけた。
「父上は…まだお戻りではないのだろうか?」
話題を変えたくてふと呟くと、
「そのようにござりますが…聞いてまいりましょうか?」
彩之介が腰を浮かせかけた。
「いや…別に用はないのだ」
「左様に…ござりますか?」
特に父に話したいことがあるわけでもない。
ただ、斯様な夜更けまで、何処で何をしているのやら…。
気にならぬといえば嘘になるが、詮索しても始まらない。
「父上がおられぬなら…先に湯をつかってもかまわぬな」
弥一郎は独白のつもりだったのだが、
「で、ではお背中をお流しします!」
彩之介が勢いこんで申し出た。
弥一郎は戸惑った。
彩之介が誠心誠意、弥一郎に仕えたがっているのは痛いほどわかる。側仕えとして召し抱えているのだし、主人が望めば伽をするのも勤めのうちだ。
しかし弥一郎はためらっていた。彩之介と肌を合わせたのは三度。そして、抱けば抱くほど瑞々しい躯は弥一郎を魅了し、我を忘れる瞬間、切なげに悶える彩之介と三郎との見境がつかなくなっていく。
彩之介自身のこともかわいい、いとしいと思ってはいるのだ。
しかし、感極まった果てに彩之介の中に放ちながら、結局、胸の奥で三郎の名を呼んでしまう。
彩之介に慕われているのがわかるだけに、弥一郎はこういう自分が許せないのだ。彩之介は陰間茶屋で頼るものもなく、親身なものに飢えきっていた。百両で自分を請け出してくれた弥一郎と内藤家に心底尽そうとしている。
(…やはり斯様な気持のまま、彩之介に触れてはならぬ)
それが弥一郎なりの誠意だった。
「彩之介…。湯殿の世話など、下女や下男の仕事だ。そなたは小姓なのだから、そんなことをせずともよい」
「わ…私はただ…」
優しく諭したつもりだったが、彩之介の瞳がにわかに曇った。弥一郎に拒まれたと思ったのだろう。
弥一郎は哀れと思いながらも、
「さ、もうよいから、そなたも下がって休め」
「弥一郎様…」
「父上や叔父上を待っていなくてよいぞ。どうせ朝帰りだろう」
弥一郎は冗談めかして笑ったが、彩之介は頬をこわばらせ、悲し気にうつむいていた。
*
亥の刻を過ぎた頃、帯刀はようやく駕篭で霊巌島の寮へ戻った。
朝から芝居見物で、お牧の方様の御機嫌とりに腐心した帯刀は、憂さ晴らしも兼ねて、島崎屋とともに茶屋に芸者を呼んで派手に遊んだ。
ほろ酔い加減で寮に戻った帯刀だが、
(ん…?)
自室へ向かう途中、肩を落として廊下をゆく彩之介を見かけた。
あまりに寂し気な後ろ姿が気になり、しばらく無言で見送っていると、やがて湯殿のほうから崩し縞の湯帷子を着た弥一郎が出てきた。
「あ、父上。お帰りなさいませ」
「おお」
「お帰りが何時頃かわかりませなんだゆえ、先に湯を使わせていただきました」
「それは構わぬが…弥一郎、彩之介はいかがした?」
弥一郎は小首をかしげ、
「夜も更けましたゆえ、先に休ませましたが?」
「左様か…」
「それが何か?」
言葉少なに探り合うようなやりとりだった。
先に休ませたということは、今宵も伽を命じるつもりはないということか。
先日の嶺次郎と彩之介の会話からすると、江戸に着いて以来、弥一郎は彩之介に伽をさせていない。陰間茶屋から身請けしてまで連れてきた彩之介だ。連日可愛がっているのかと思いきや、一月近くも触れていないとは、帯刀には息子のやることが腑に落ちない。
(嶺次郎の言い種ではないが、これでは彩之介も淋しゅうて眠れぬだろう…)
「では、父上、お休みなされませ」
「うむ…」
弥一郎は一礼すると、静かに自室に戻っていった。
帯刀は思案顔でその場に佇んでいたが、ふと息子の後ろ姿に向かって呟いた。
「…朴念仁め。そなたがきちんと可愛がってやらぬなら…」
帯刀は悪童のように瞳をかがやかせ、肉厚の唇にうっすらと笑みを浮かべた。
*
弥一郎から下がって休めといわれ、彩之介が着替えて床につこうとしたとき、
「彩之介殿」
障子戸の外から声がかかった。
天満屋の手代、為吉だった。
為吉は内藤一家が滞在中、家令がわりにお使いくださいと、天満屋の店からつかわされた男である。
「殿様がお呼びですぞ」
「あ、お帰りになられたのですか? 少々お待ちを」
彩之介は解きかけていた袴の紐を結び直し、衣服を整えると障子戸を開けた。
中から戸をあけると、廊下に坐っていた為吉が一礼した。
「湯殿まで新しい下帯を持ってきてほしいとのおおせです」
「え、下帯?」
彩之介は首をかしげた。
さきほどの弥一郎の言い種ではないが、それこそ自分ではなく『帯刀付きの女中』の仕事ではないか?
帯刀には天満屋が気をきかせ、若くて見栄えのよい女中をつけている。
普段はその女中・おもんが帯刀の身のまわりの世話をしている。
いぶかしげな彩之介に向かって、為吉がぽんと膝を叩いた。
「ああ、おもんさんなら、今宵は日本橋の店のほうへ戻っていて留守なんです」
「あ、そういうことですか…」
なるほどとうなずいた彩之介は、
「わかりました、すぐお持ちいたします」
彩之介は為吉に軽くうなずいた。
彩之介は弥一郎の小姓だが、旅先のこともあり、時には帯刀は嶺次郎の身の回りの世話もする。言われたとおり帯刀の部屋によって柳こおりから新しい下帯を取り出すと、急いで湯殿へと向かった。
*
彩之介は下帯を棚の上、滝縞の湯帷子の脇に置くと、湯殿への引き戸の前に跪き、
「殿様、彩之介にござります」
と声をかけた。
「おお、彩之介か。休んでいたところをすまなんだな」
湯殿の中からくぐもったような声が響いた。
「いえ。新しい下帯をお持ちしました…。棚のところに置いておきますゆえ…」
「うむ…御苦労であった」
「では私はこれにて…」
彩之介が戸の脇で一礼して、立ち上がりかけたところ、
「彩之介」
低く、有無を言わせぬ声音で帯刀が名を呼んだ。
どこか常ならぬものを感じ、彩之介の身体に緊張が走った。
戸の向こうで、帯刀が湯からあがる音がした。
ひたひたと近付いてくる濡れた足音。
引き戸があき、乳白色の湯気が一気に外へ流れ出た。
「彩之介…そなたも湯をつかっていってはどうじゃ?」
彩之介の眼前に帯刀の両脚があった。
筋肉質の長く逞しい脚から、湯が滴り落ちている。
「と、殿様と御一緒するなど…滅相もござりませぬ」
彩之介は帯刀に発する雄の匂いに圧倒され、うつむいたまま息苦しさに小さく喘いだ。
「何、遠慮することはない。…ついでに儂の背中を流してくれ」
帯刀にそう言われては「御用」を申し付けられたに等しい。
百両で請け出された彩之介が、当主に否という権利はなかった。
「かしこまりました…」
危ういものを感じながらも、彩之介は命じられるままに着物を脱ぎ、下帯一枚の姿で湯殿に入った。
***
どのくらいそこに坐っていたのだろう。気がつけばすっかり身体は冷え、簀子も冷たくなっていた。
腰から下が鉛のように重い。彩之介はだるい身体に笞うって風呂桶のふちにつかまると、手桶で冷めた湯をくみあげた。蝋燭の灯りも尽きかけた深夜の湯殿で、彩之介は涙ぐみながら何度もぬるま湯をかぶり、汗と体液にまみれた身体を浄めた。
帯刀から湯殿に来いと言われたときから、かすかな予感はあった。なのに自分はのこのこと…。殿様には請け出していただいた恩もあるし、豪放なお人柄が嫌いではなかった。されど…自分は弥一郎の小姓ではないか。
彩之介は帯刀の性技に翻弄され、あられもなく乱れた自分が信じられない。心は全て弥一郎のものなのに…よりによって、弥一郎の父、帯刀にも肌身を許してしまうなど。
自分はやはり…骨の随まで淫売なのやもしれぬ。
弥一郎は事あるたびに『これからは武家の子として、誇りを持って生きよ』と言うが…。
「父上…、兄上…」
二人が上司の謀計にはまり、詰め腹を切らされてから、自分の人生は一変した。売られた先の『大和屋』で、彩之介は容赦ない仕込みを受けた。誰が相手でも、どんなに嫌でも、最後にはよがり泣いて男を楽しませる抱き人形…それが今の己の姿だった。
されど、この家を出たところで、もはやどこにも行くところはなかった。
(私は百両で『内藤家』に買われたのだ。
殿様はもちろん、お望みとあらば、嶺次郎様のお相手もせずばなるまい…。
弥一郎様がお父上や叔父上を止めてくださらねば、私に拒む権利はないのだ…)
彩之介は震える身体を両腕で抱きしめた。
また降り始めたのか、湯殿の窓から柔らかく樋を叩く雨音が聞こえてきた。
恨めしいのは彩之介を襲った不運か、浅ましい性か。
檜の簀子の上に座り込んだまま、彩之介は声もたてずに涙で頬を濡らした。
五月雨 了
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