玻璃の器
 
 人の口に戸は立てられない物で、文と共に届いた菓子を見て喜ぶ芳姫を除き、東宮惟彰から文が届いたという噂は三条邸も内裏をも騒がせた。
 五年もすれば惟彰の元服式が行われる。それが終われば兼長どのの一の姫は即、入内かと、人々は勝手気ままに噂した。
 そんな噂が立っていることも気にとめず、邸内をかけずり回って遊んでいた馨君は、惟彰が自分を芳姫だと思い込んでいるとも知らずにいた。時々、東の車宿りまで一人で出て来て、泥だらけの水干(すいかん)姿の若君に内裏から来た従者の方が驚いたりする。
「だいりってどんな所?」
 あまりの汚れ様にこの家の一の君とも気づかず、女房の子供かと思った従者が笑いながらぞんざいな口調で答えた。
「そりゃあ夢のように立派な所さ。この家も立派だがねえ、なんせ主上がお住まいになられる場所だからな。坊はここに住んでるのかい」
「そうだよ。あっちの方」
 寝殿の方を指差した馨君に気づいたのか、他の従者がやってきて馨君の頭をなでながらこりゃ女の子みたいに可愛い子だなあと言った。女の子じゃないよとムッとして馨君が答えると、そうかそうかと適当に言って従者は馨君の水干の泥を払ってやりながら話を続けた。
「東宮さまも住んでおられるし、女房たちもたくさんいるなあ。東宮さまは他の皇子さまたちに比べたら少し大人しくていらっしゃるけれども、文章博士が東宮さまが一番お利口でいらっしゃると言ったそうでな。まだ七歳だというのに、漢詩などスラスラ読めるし、それもすぐに覚えてしまわれるそうだ」
 また東宮さまか。絢子が来た日に庭でバッタリ会った惟彰を思い出すと、馨君は小さな鼻にシワを寄せた。何て言ったっけ…これ、これあきら? 自分と二歳しか変わらないって若葉が言ってたけど、ずいぶん背が高かったな…。何となく男のプライドを刺激されて、思わず背伸びをして馨君は駆け出した。結局、袿は返してくれなかった。今も持ってるんだろうか…考えながら歩いているとふいに庭から芳姫の笑い声が聞こえて、馨君はそっと庭を覗いた。
 あいつ、何だっけ。
 そうか、庭で魚を見ていたヤツだ。今度は水良がオニよ! 芳姫のかん高い声が響いて、小霧や他の童たちと共にわあっと駆け出す。
「もーいーかーい?」
「もーいーよー」
 他の子供たちの声が聞こえて、水良が木に伏せていた顔をパッと上げた。振り向いた瞬間、馨君と目が合って水良は目を輝かせた。見つけた! そう言ってから、馨君に近づいて怪訝そうな表情で見上げる。
「…誰?」
 顔を覗き込まれて、馨君は思わず赤くなった。水良の目は黒っぽくてつぶらだった。水良は同じ年の芳姫よりも小柄で、萌黄の水干がよく似合っていた。三条邸に慣れたせいか、初めて見た時よりもずっと頬に赤みもさして活き活きとした表情をしている水良を見て、馨君はあの…と口ごもった。
「あ、兄上! お勉強はもう終わったの?」
 水良と一緒にいる馨君に気づいて、茂みにしゃがんでいた芳姫が立ち上がった。我に返って馨君が逃げてきたと答えると、小霧も出てきて一緒にかくれんぼなさいます?と尋ねた。
「やめとく」
 つい最近までは一緒になって転げ回っていたというのに、小さな水良がいると思ったら急にかくれんぼが子供っぽいような気がした。馨君が寝殿に向かって駆け出すと、あ、待って!と言って水良が後を追いかけた。
「何?」
 以前、遊んであげない!と水良に意地悪を言ったことを馨君は覚えていて、何だか気まずかった。足を止めて馨君が振り返ると、水良がはあはあと息をしてから頬を赤くして馨君をまた見上げた。
「あの…お文」
「え?」
「母上のお文、馨君が書いたって言ってたお文…」
 きょとんとして水良を見ると、馨君はまた歩き出した。隣についてくる水良が興奮したように夢中で言った。
「水良にも字を教えてほしいの。兄上がだいりにいるから、お文を出すの」
 馨君がジッと水良を見つめた。何か…可愛いかも。自分にも弟がいたらこんなカンジなのかなあ。思わずニコッと笑うと、馨君は水良の小さな手をつかんで歩き出した。
「来いよ。紙と筆、部屋にあるから。いろんな色があるから、どれがいいか選ぼう」
「うん」
 今まで仏頂面だった馨君が笑うと愛らしさ全開で、水良はその笑顔に一瞬見とれてから頷いた。お前、水良っていうのか? 馨君が尋ねると水良は黙ったまま頷いて、寝殿へ上がる階を小さな足でよいしょと上がった。
 
(c)渡辺キリ