玻璃の器
 
 桜の花が咲き始めた頃、絢子は女の子を出産した。
 産養い(うぶやしない)は内裏で行われる予定だったが、絢子の体調がすぐれないままで、兼長の三条邸に多くの貴族や宮家の人々が招待されて盛大な祝宴が行なわれた。
 倫子と名づけられた妹を見て兄の意識が芽生えたのか、水良は急にお兄ちゃんだからしっかりすると言い始めた。お兄ちゃんだから甘えない。そう言って、乳母に抱かれて乳を飲んでいる妹を不思議そうに見つめた。
「兄上、おひさしぶりでございます」
 そう言って小さな手をつき挨拶する水良を見て、惟彰は目を細めた。水良はちょっと大人になったみたいだなあ。そう言って笑うと、惟彰は几帳の向こうで寝ている母親に声をかけた。
「父上が、母上に早く戻って来てほしいと仰せでございました」
「メチャクチャ言うわね。自分で生んでみればいいのよ」
「相変わらずですね、母上は」
 産後で体力が落ちている絢子は、ここ一週間ほどずっと寝たり起きたりを繰り返していた。まあ、桜が散る頃には帰れるかしらね。目を閉じて絢子が言うと、惟彰はお伝えしますと答えた。
「さっき、北の方さまにご挨拶に伺ったのですが…」
「姫なら庭で駆け回って遊んでたわよ。さっき声が聞こえたから。春宮、あなたお文を書いたそうね」
「はあ」
 赤くなって惟彰が答えると、絢子はよいしょと身を起こして女房に支えられながら座った。
「今は微妙な時期だから、書くならこっそり書きなさい」
「どういう叱り方ですか、それは」
「悪くはないわよ。でも、噂になってるもの」
「はい、分かりました」
 気遣いが足りなかったな。考えながらため息をついて、惟彰はまだ赤ちゃんをジッと見ている水良に声をかけた。水良、お屋敷の中、案内してくれるかな。惟彰が笑うと、頷いて水良もニコリと笑った。
「水良、姫のこと知ってるよ」
 女房を従えて二人で簀子を歩いていると、さっきの話を聞いていたのか水良が惟彰を見上げて言った。え、ホントに? 惟彰が驚いて尋ねると、水良は頷いた。
「一緒に遊ぶもん。馨君も一緒に遊ぶよ。馨君は字も教えてくれたの」
「え、文字?」
 驚いて惟彰が尋ね返すと、お文読んでないの?と心配そうな表情で水良が惟彰を見上げた。え、ああ、読んだよ。あわててそう言うと、あれ絵じゃなかったのか…と焦ったように口をつぐんで惟彰はごまかすように笑った。
「上手に書けてたね」
 惟彰が言うと、水良はそう?と得意げに言ってから簀子の欄干をつかんだ。馨君! ふいに声を上げた水良に驚いて惟彰が目をやると、ここから見ても背の高い木に上って庭を見下ろしている馨君の姿があった。危ないな、大丈夫か。惟彰が振り向いて女房に尋ねると、女房もオロオロして誰か呼んで参りますと一人下がって行った。
「水良も来いよ!」
 こちらに気づいたのか笑いながらそう言って、それからそばに立っている惟彰にも気づいて馨君は口をつぐんだ。どうやら惟彰のことを忘れているようだった。階(きざはし)から庭へ出て、裸足のまま水良が木の下まで駆けると、惟彰もついてきて木を見上げた。
「降りられますか?」
「降りられるけど、まだ降りないよ。鳥の巣を見るんだ」
 惟彰の言葉に答えて笑った馨君は、思わず胸がギュッと締めつけられるほど可愛かった。やっぱりあの姫にそっくりだ。赤くなって惟彰が馨君の顔をジッと見つめると、水良が木にしがみついて言った。
「すごいねえ、馨君。木も上れるなんて。どうやって上ったの?」
「水良も上れるよ。鳥の巣、見たいだろ?」
「見たい!」
 惟彰とは違う意味で顔を真っ赤にして、水良は両手を上へ伸ばした。馨君をすっかり尊敬している様子で、そんな水良を見て苦笑すると、惟彰は危ないから水良はまだダメだと言った。
「何で? じゃあ大きくなったら上ってもいい?」
「ああ、この枝よりも大きくなったら」
 そう言って隣にある木の枝を指差すと、惟彰は馨君にも降りて来るよう促した。一番下の枝までするすると降りて来ると、そこを跨いで馨君は惟彰の顔を覗き込んだ。
「…会ったことある?」
 怪訝そうに馨君が尋ねると、惟彰は管弦の宴の夜にと呟いた。もう五歳にもなるのに、相変わらず袴を履く途中で逃げて来たらしく、すんなりと伸びた足が木の枝からぶらりとぶらさがっていた。まるで女房の…いや、町の子供みたいだ。女房が呼んで来た兼長の従者に気づいて惟彰が振り返ると、従者は若君はこの木がお好きですなあと笑って馨君をひょいと抱き上げた。
「お落ちになると大事ですから、木にお上りになってはなりませぬ」
 慌てて駆けて来た女房がはあはあと息をつきながら言うと、従者と女房を見上げて馨君は駆け出した。水良も行く! そう言ってその後を追いかけた水良の後ろ姿を見ると、惟彰は肩をすくめた。
「すっかり水良を取られてしまったなあ。私のことはどうでもいいと思ってるみたいだ」
「最近、馨君さまと相撲を取ったり駆けっこしたりして、毎日遊んでおいででしたからなあ。馨君さまも実の弟御ができたみたいに、弟宮さまを可愛がっておいでですよ」
「じゃあ、よかったのかな?」
 寝殿へ向かいながら惟彰が言うと、またすぐにお戻りになられますよと言って従者は笑った。今度は心配なく内裏に帰れるな。目を伏せて階に立った惟彰に、今すぐ角盥(つのだらい)をお持ちいたしますと言って女房が場を離れた。
 
(c)渡辺キリ