玻璃の器
 
 狭い範囲ながらも、ちやほやされていた内裏での生活を離れて競争と気遣いの社会を体験した水良は、惟彰が内裏へ戻る時間が来ても泣かなかった。母上と赤子は水良が守ります。たどたどしい口調で、女房から教えられた通りに棒読みすると、水良は惟彰を見上げてニコリと笑った。
 今度は会えなかったな。芳姫に心を残しながら、惟彰はお忍び用の女車に乗り込もうとした。水良と一緒に惟彰を見送りに来た馨君を見ると、余計に恋しさが募った。見送りのために桜色の水干を着て髪に桜の花を挿した馨君は、あの日の姫君の記憶を鮮やかに呼びさました。馨君を殿上童として呼んだら? 主上が言っていた言葉を思い出して、惟彰は口を開いた。
「馨君…内裏へ来たいと思ったことがありますか?」
 きょとんとした馨君を見ると、惟彰は笑ってやっぱり何でもないと付け加えた。自分のそばにはいてほしいけれど、人目の多い内裏でこの姿を晒すのは嫌だな。馨君の角髪に結った毛先にサラリと手で触れると、また来ますと言って水良の頭もなでてから惟彰は車に乗り込んだ。
「お前の兄上も、お前みたいにここにいればいいのにな。何度も来るんならさあ」
「兄上は内裏でいろいろしないといけないことがあるんだって。母上がそう言ってた」
「ふうん。しないといけないことって、何だろね」
 惟彰の車を見送った後、頭の後ろで手を組んで歩き出すと、馨君は耳元に挿していた桜の花を取って水良の髪に挿した。お前にやるよ。そう言って笑うと、馨君は水良の手を引いた。
 兄上が一番好きだと思ってたけど…馨君も好きだなあ。同じぐらい、好きかもしれないなあ。
 馨君のふっくらとした白い頬を見上げると、水良は繋いだ手に力を込めた。馨君は自分よりも大きくて、顔も可愛くて舞も上手くて、木も上れて、字も上手に書けた。楽しいことがあると、まるで花が咲いて零れるように笑った。早く内裏に帰りたいと泣いて暮らしていた水良に、帰るまでにいろいろ教えてやるよと可愛らしい声で言ってくれた。
 赤ちゃんも生まれて、父上も兄上もいる内裏には帰りたいけれど…馨君と会えなくなるのは嫌だなあ。
 馨君の桜の水干に合わせて萌黄色の水干を着込んだ水良は、二人で手を繋いで歩いているとまるで兄弟のようだった。赤ちゃん見に行こうか。馨君が振り向いて言うと、水良は馨君を見上げて頷いた。
 
(c)渡辺キリ