玻璃の器
 
 雨が降ったり止んだりを繰り返して、桜は少しずつ散って行った。花よりも葉の方が多くなった頃、ようやく絢子の体調が戻った。
 五十日の祝い(いかのいわい)に間に合うようにという主上からの再三のお召しを受けて、絢子が内裏へ戻ることになった。明日は水良と倫子を連れて絢子が内裏へ戻るという日の夜、水良は馨君に文を書いて自分で寝殿へ届けた。水良がよく着ていた水干と同じ萌黄色の紙に、初めて書いた時よりも少し上手くなった文字が並んでいた。文を開くと中から押し花にした桜が出て来た。それは馨君が水良の髪に挿してやったものだった。
「…ありがと」
 水良が内裏へ戻ることを聞いていた馨君は、浮かない表情でその桜の花を手に取った。文には、あそんでくれてありがとう。みずら、と書かれてあった。文を折りたたんで大事そうに箱に入れると、そこから鳥の形に折った紙を取り出した。
「これ、やる。お前、鳥が好きだから」
「うん」
 小さな手で水良はそれを受け取り、嬉しそうに眺めた。上手だねえ。そう言って笑った水良を見て、馨君はそばに控えていた呉竹を見上げた。
「今日、水良と一緒に寝てもいい?」
「ようございますよ。呉竹が藤壺さまにお頼み申し上げておきましょう」
 目尻のシワを寄せて笑うと、呉竹は立ち上がって御簾を上げて廂へ出て行った。女房たちが寝所を整えると、二人を単衣に着替えさせた。しばらく会えないこと、水良は分かってるのかなあ。水良の手を引いて寝所へ入ると、衾(ふすま)をめくった女房を見て、馨君はその中に潜り込んだ。
「ふふう、あったかい」
 笑って言うと、水良は小さなふくふくとした手で馨君に抱きついた。女房たちがよく眠れるようにと静かに几帳の向こうへ下がって行った。灯台(とうだい)の火が女房たちの流れで揺らめいた。薄暗がりの中で水良の顔を眺めると、馨君は東宮に似てないなあと考えながら水良の頭をなでた。
「水良…だいりって楽しい所?」
 馨君が尋ねると、水良は楽しいと思うと答えて馨君の手を握った。水良の体温は自分よりも高かった。温かな水良の手をギュッと握ると、馨君は目を閉じて呟いた。
「父さまが、俺も大きくなったらだいりにしゅっしするんだって言ってたけど…水良がいるんなら、今すぐでも行きたいなあ」
「来ればいいよ。水良も父上に頼んでみるよ。父上ならきっとお願い聞いてくれるよ」
「そうかなあ…」
 水良の額に自分の額を押しつけて、馨君はふううと息を吐いた。長いまつげが頬に影を落として、柔らかそうな唇がふと開いた。大きな目を開いて馨君が水良をジッと見つめると、水良も馨君の愛らしい顔を眺めた。
「会いに行くよ、きっと」
「すぐ会えるかな」
 同時に言って笑うと、二人とも急に眠くなったのか目をしょぼしょぼさせて細めた。それでも眠るのがもったいないような気がして、二人はその夜、随分遅くまで衾の中で話していた。
 
(c)渡辺キリ