玻璃の器
 

   2

 年に二度、三度と水良の方から兼長邸へ遊びにくることはあるものの、人の手を借りなければ外出も許されず、しかも水良が第二皇位継承者であるという理由で、馨君と水良が会う回数は徐々に減っていってしまった。
  馨君からも父親に内裏へ遊びに行きたいと何度も頼んだけれど、主上や東宮に何か粗相があっては困ると、行儀作法を身につけてからという条件をつけられ、ジッとしていることの苦手な馨君が半刻も座っていられるはずがなく、いつの間にか殿上童の話もうやむやになってしまったまま月日は流れた。
 絢子が生んだ姫君、倫子の三歳の袴着が終わると、すぐに東宮惟彰の元服式が取りざたされるようになった。宮中の通過儀礼はがんじがらめで、一年が飛ぶように過ぎていった。何て忙しいのとため息をつきながら、今年十三歳になった東宮惟彰の少年から青年へ変わりつつある仕草や表情を思い出して、絢子は人知れずうーんと呻いた。
 結婚問題が、早くも持ち上がっているのである。
 いたすかいたさないかはともかく、東宮や高位貴族の子息は元服と共に妻を娶ることも多かった。惟彰よりも十歳も年上の左大臣の娘や、七歳年上の源大納言の娘などが候補に挙がっていて、主上ともそのことを話しては頭を痛める日々が続いていた。
 ヘタに先にこちらを娶れば、あちらが立たないという事態だって起こりうる。
 惟彰が東宮である以上、娶った姫は更衣、女御ともなり、ゆくゆくは内裏を盛り立てる器量をも兼ね備えてなければならない。絢子としては、力を持つ貴族の一人である兄兼長の子であり、自分の姪である芳姫を惟彰の一の妃にしたいという気持ちが強かった。だがそれを主上の女御である自分がゴリ押しすれば、政治力の均衡を崩してしまう。
「主上も悩み多き日々を過ごしておいででございます。お義父上さまのお考えはいかがでありましょうかと、先日も話していたばかりでございました」
 惟彰の祖父、主上の父で先帝でもある白梅院が機嫌伺いに内裏を訪れた日の午後、几帳越しに対面して絢子はいつもの五割増しで令嬢ぶりながらしとやかに尋ねた。
「もう惟彰の添臥(そいぶし)のことで悩んでおるのか。月日が経つのは早いものだ」
 すでに白髪まじりで壮年という年頃でありながらも、白梅院は美丈夫と名高かった帝時代と変わらず堂々とした面持ちで、ゆったりとした口調で答えた。朕の考えでは…と言葉を切って、それから白梅院は御簾の外に視線をやった。
 それからしばらく黙り込む。
 とっとと言いなさいよ。だから苦手よこのジジイ。
 考えてるふりして、黙って人を威圧するのが好きなんだから。
 几帳の奥で見えないからと顔を思いきりしかめながら、絢子はさりげなく居住まいを正して衣擦れの音をさせた。まだ義母上の方が好きだわ。ハキハキ物を仰ったし、裏のない明るくて素直な方だったわね。すでに亡くなった主上の母、太皇太后を思い出して絢子はチラリと几帳の向こうを射るように見た。
 とんでもないことだけは、言わないでちょうだいよ。
 絢子が息を潜めて言葉を待っていると、ふいにコホンと咳払いの音が響いて、それから白梅院の低く張りのある美しい声が響いた。
「文章博士の源頼善の娘に、確か姫がおったはずだが」
「東宮傅の? そうでございますわね…春宮さまより一つか二つ、年上の」
「かの姫が昨年、裳着(もぎ)を済ませられたはず」
「…」
 しかし…と言いたい気持ちをとどめて、絢子は開いた扇で口元を隠した。母親なれば、できるだけ力を持つ父親のいる姫を迎えたいのが親心。東宮傅の源頼善は高潔で立派な人物ではあったけれど、惟彰の元へ姫を入内させるには、身分が少し低かった。娘を入内させても生涯、女御になれそうもない。
 しかもこの頃、東宮の元服の夜に添臥の妻として迎えられる姫は、公卿(従三位以上)の父親を持つ者とされていた。東宮傅で文章博士を兼任している源頼善は正四位上。公卿には一歩及ばない。
「頼善は博識にて清廉な人物。舅として、きっと惟彰のよい相談相手になってくれよう。そなたとしては、権大納言家の一の姫を迎えたい所だろうが…」
「いいえ、芳姫はまだ、御裳着も済ませられておりませんし…けれど文章博士どのは上達部(かんだちめ)にはござりませぬゆえ」
 小さな声で、反論とは取られないよう気づかいながら絢子が言うと、白梅院はふむと呟いてから答えた。
「前例がなくとも手はあろう。大納言(兼長)の一の姫を入内させずとも、惟彰にはそなたも大納言もついていよう…一の姫は水良に、そう願うのは朕の愚かな親心だろうか」
 白梅院の言葉に、息を飲んで絢子は眉をひそめた。
 一の姫の話が出た時、そこで話を変えるべきだった。もう退位したとはいえ、そして非公式とはいえ、白梅院の意向を自分は聞いてしまった。もう自分から表立って芳姫を入内させたいと主上に進言することはできない。絢子が黙っていると、白梅院はふいに笑い声を上げた。
「まあ、今のは戯れ言と笑ってくれ。水良の母宮は朕の異母妹なれば、朕にとってはどうしても惟彰よりも水良の方が不憫でならぬ。そなたが生涯、後見を務めてくれるならば、安心もできようが」
「私は水良を実の子とも思っております。春宮さまとも実の兄弟同然と思っております…お義父上さま、どうぞご安心くださりませ」
 手をついて絢子が頭を下げると、几帳越しとはいえそれが伝わったのか、白梅院はジッと几帳の端からこぼれた絢子の衣の裾を見つめた。惟彰にも会ってゆこう。そう言って立ち上がった白梅院にもう一度深々と頭を下げると、絢子は眉をひそめたまま小さく息を吐き出した。

 
(c)渡辺キリ