玻璃の器
 

 椿の宮の父宮である蛍宮は、先々帝と藤原家の姫の子で親王宣下を受けていた。宮君らしいおっとりとした性質で楽をこよなく愛し、家柄は極めてよいものの他の同等の宮家に押されて官職には就いていなかった。時々、雅楽寮へ楽を教えに行ったり、宮中で宴があれば参内するぐらいで、正室、禎子の実家の財産と自分が持っている荘園収入で、悠々自適の生活を送っている。
 それに比べると正室の禎子はしっかり者で、家司(けいし)と話し合いながら荘園経営に務める傍ら、二人の男子もいずれは宮中へ参内させようとあちこちに働きかけていた。その性格を受け継いだのか、長男の時の宮は先々帝の影響も薄らいだ中、宮よ楽よとのんきに構えてもいられないと、元服と同時に臣籍に下り蛍宮家から独立することを望んでいた。
 この頃、女の家へ通う通い婚が通例だったため、いずれ妻の実家へ迎えられる男子よりも、婿を迎える女子の方が大事にされた。男の出世は妻の実家の財力が物を言ったのである。
「まあでも、大納言どのの一の君は別だろうな。正室の姫は入内するという噂だから、その後見を務めるために馨君が跡を継ぐのだろう」
 どこから噂を仕入れて来るのか、時の宮は大人びた口調で笑いながら言った。馨君の元服が終わったら、あなたも元服なさるんでしょう? 蛍宮に似たおっとりとした口調で、姉の富久子が尋ねた。下座に座って黙っていた冬の君をちらりと横目で見て、それから椿の宮はあぐらを組んだ足に手遊びに触れながら言った。
「兵部卿宮どのの姫に、文は送っておられるのですか?」
「まだだよ。何だよ、椿。耳が早いな」
「女房が噂してたよ。向こうから話が来たんだろ?」
「うん、父上にな。でも母上の方がイケイケだな」
 子供の頃から懇意にしていた兵部卿宮と蛍宮は、成人してそれぞれ邸を持つようになった今でも時々酒を酌み交わす仲だった。時の宮にとってはよい縁談で、話をもらった父よりも、今では母禎子の方が乗り気だった。
「冬の君にもいずれはしかるべき姫君を探して下さると、母上が仰っていたよ。母上は椿を猫可愛がりしてるからなあ。ひょっとしたら椿よりも冬の君の方が、早く元服するかもしれないな」
 冗談めかして言うと、時の宮はじゃあまたと御簾を上げて外へ出た。冬の君は二の宮よりも二歳も年下なのにと、富久子が笑った。
「私のような者になど、もったいないお話にございます…」
 無表情のまま静かに言った冬の君を見ると、椿の宮は黙り込んだまま立ち上がった。宮? 怒っている様子の椿の宮に富久子が驚いて声をかけると、何でもないと言って椿の宮はスタスタと廂へ出て行った。
 何だよ、冬のヤツ。
 そのいら立ちの理由も分からないまま、椿の宮は自室へ向かって早足で歩いた。兄上や姉上の前だからって、畏まっちゃって。いつものことと言えば、いつものことだけど…。
「椿の宮」
「うわっ!」
 ふいにすぐ後ろから声をかけられて、椿の宮は驚いて思わず声を上げた。ビクッとして振り返ると、そこには冬の君が立っていた。走って来たのか、手にはまだ小さな扇を持ったままはあはあと肩で息をついていた。椿の宮が怪訝そうに眉を寄せると、冬の君は黙ったままジッと椿の宮を見上げた。
「何」
 椿の宮が尋ねると、冬の君は黙り込んだまま視線をそらしてから、また椿の宮を見上げた。
「怒っているように見えましたので」
「…だから、機嫌取りについて来たのか?」
「いえ、なぜ怒ってしまわれたのか、それが聞きたくて」
 淡々と尋ねた冬の君を見ると、椿の宮はプイと顔を背けてまた歩き出した。小さな冬の君がまた小走りについて来た気配を背中に感じて、少しだけ歩調を緩めた。心乱される。ここに冬の君がいるだけで。ふいに振り返ると、立ち止まって椿の宮は冬の君を真っ直ぐに見つめた。
「お前」
「…はい」
「お前、この家を出たいか? 大人になって、早く女の元に通いたいか」
「いいえ、そのようなことは…」
 椿の宮の剣幕に、冬の君は口ごもった。大きな目を伏せた冬の君の腕をつかむと、グイと引っ張って椿の宮はそのまま塗籠(ぬりごめ)の中に押し込んだ。驚いて目を見開いた冬の君を見て、椿の宮は少し黙ってからまた口を開いた。
「冬、お前…俺のそばにいたいか?」
「椿の宮…?」
「俺のそばに、ずっといると誓え」
 子供らしい物言いで、椿の宮はその場に膝をついた。薄暗い塗籠の中で、冬の君の白い肌が浮かんで見えた。椿の宮の少年らしい真っ直ぐな眉と黒い目を見つめると、冬の君は黙ったまま頷いた。
「本当だな?」
「…母上の血筋を目当てに歌をよこした受領の家へ行かねばならぬ所を、蛍宮さまに助けていただいたご恩を忘れては…死んだ後に母上に叱られますゆえ」
 まだ高い子供らしい声で、たどたどしく言って冬の君はまた黙り込んだ。その目をジッと見つめると、椿の宮は薄い自分の唇で冬の君のふっくらとした赤い唇を覆った。驚いて冬の君が身を引こうとすると、椿の宮は腕をつかんでそれを遮った。
「大人はこうして、確かめるんだ」
 唇を離して言うと、椿の宮は目を細めて笑った。滅多に感情を見せない冬の君が驚いている表情を見るのは楽しかった。もっと吸ってやる。そう言って目を細めて冬の君の唇に唇で触れると、そのままそこを吸って椿の宮は冬の君の小さな体を抱きしめた。

 
(c)渡辺キリ