玻璃の器
 

 式次第を終えて酒宴の席へ向かっていると、簀子にいる二人の人影に気づいて馨君が立ち止まった。後ろにいるのはお付きの女房らしかった。馨君が一瞬息を飲んで、それからその場に片膝をついた。
「素晴らしい立ち姿でしたよ、馨君」
 席に着く前に、懐かしい兼長邸の庭を見ようと簀子に出ていた惟彰が、馨君に気づいて声をかけた。惟彰の冠姿を目にするのは初めてだった。馨君がありがとうございますとまだかすれた少し高い声で言うと、惟彰は笑みを浮かべて馨君に近づいた。
「変わりありませんね、馨君は。あそこにある木に上って、鳥の巣を見るんだと言っていた姿そのままだ」
「…まだ覚えてたの?」
 赤くなってコソリと小声で馨君が尋ねると、惟彰は声をたてて笑った。
「忘れないよ。あんな高い木に上って、平気な顔をしてるんだもの」
 馨君の腕をつかんで立ち上がらせると、その顔をジッと見つめて惟彰は息をついた。この君は、なぜあの日の姫の姿そのままに、愛らしい大きな目をしているんだろう? なんてふっくらとした柔らかそうな赤い唇をしているんだろう…馨君に見とれていた惟彰は、怪訝そうな馨君の視線に行き当たってハッと我に返った。
「馨君…かの姫はお元気でしょうか」
 惟彰が尋ねると、馨君は目を細めてからかうような笑みを浮かべた。あまり優れないようだよ。馨君が正直に答えると、惟彰は小さなため息をついて苦笑した。
「文を書いても、以前のように色よいお返事をいただけません…私が望んでいるのは一の姫のみと、馨君からも伝えていただけないでしょうか」
「言ってもいいけど、姫のことどう思ってるの?」
 歩き出しながら、馨君が真顔で尋ねた。そばにいた女房に下がれと言って手を払うと、惟彰は馨君の隣を歩きながら少し考えて答えた。
「…姫に他からの縁談が来ていると聞いて、よく眠れぬ夜が続いています。大納言どのは、一の姫をどうなさるおつもりでいるのか…」
「だから、惟彰自身はどう思ってるんだって!」
 思わず子供の頃のままに東宮を呼び捨てにして、馨君は惟彰を見上げた。ドキンとして、惟彰はその上目遣いの大きな目を見つめた。
「…申し訳ありません。口が過ぎました」
 目を伏せた馨君に、惟彰は私こそ…と呟いた。なんて真っ直ぐなご気性をお持ちなんだろう。体面を気にして言いたいことも言えない私とは違う。
「面を上げなさい、馨君。私は…許されるなら、今すぐにでも姫を内裏へお迎えしたいと思っているのです。あなたに会って…」
 その思いが強くなりました。最後の言葉を飲み込んで、惟彰は馨君をジッと見つめた。ホントかな…惟彰の目をジッと見つめ返すと、馨君はフッと視線を伏せて口元に笑みを浮かべた。
「姫には、私からそう伝えておきましょ」
 いたずらっぽく笑って言った馨君を見てホッと息をつくと、惟彰は目を細めた。そう言えば…言いかけて黙ると、馨君は欄干から外を眺めてから尋ねた。
「水良…さまは、どうしておられます?」
 もう二年以上会ってない。そう思うとムッとして、馨君は欄干に手を置いた。去年、父上について一度だけ内裏へ叔母上のご機嫌伺いに行った時も、水良は長谷寺まで行ってるとかで内裏にいなかったし。文だって、せっかく書いても返事が来るのは何日もたってからで…。
「元気にしているよ。今日は内裏で、女一の宮(倫子)の相手をしてるはずだ。馨君はずっと水良に会ってないのかな。内裏へ来たでしょう」
「あの時も留守でしたから。アイツ、いっつもどっかに行ってるみたいで、文もろくに寄越さないんだ」
 思わず乱暴な口調で言うと、あ、すみません…と肩をすぼめて馨君はおずおずと惟彰を見上げた。その姿を見るとおかしくて、惟彰は笑った。
「いいよ。私たちしかいない所でなら…あなたなら、許そう。私のことも惟彰と呼んで下さい」
 そう言われて、ふいに幼い頃の記憶が甦った。私は惟彰、怪しい者ではない。まだ高いあどけなさの残る口調でそう言った惟彰を思い出すと、馨君は小さく頷いた。これあきら。馨君が小さな声で呼ぶと、惟彰は嬉しそうに頷いて馨君の顔を眺めた。

 
(c)渡辺キリ