玻璃の器
 

 元服と同時に、大納言の息子である馨君は殿上に必要な従五位下の位を賜り、小納言を兼任する侍従の役目を言い渡された。常に宮中で主上のそばにいなければならない侍従となると、礼儀作法や教養もなければならず、参内を始めた馨君は、これまで外で駆け回っていた自分を恨めしく思いながらも歌や漢籍の勉強に精を出した。
 これまでほとんど会う機会のなかった主上は、実際に対面すると優しく笑い上戸で、惟彰よりもずっと性格が砕けていた。宮中作法に慣れるために毎日てんてこまいで、参内し始めてからしばらくの間、水良と会えるかもしれないと思っていたことも忘れて馨君は仕事に追われる毎日を送っていた。
 その日は馨君が参内するようになってから初めての主上の物忌みで、それが終わるまで宮中を出られないと知った馨君は、せっかくだからと幼い頃に舞や歌を教えてくれた雅楽頭、源三篤を雅楽寮へ訪ねることにした。雅楽寮は宮中の南東に位置している。
「お久しぶりにございます、馨君さま。いや、今やもう侍従の君か」
 満面の笑みで馨君を迎えた源三篤は、まだ十三歳で少年らしい顔つきをした馨君を懐かしげに眺めた。冠も深緋の袍(ふかいひのほう)もよくお似合いだ。若く初々しい束帯姿に目を細めると、三篤は目尻の笑いじわを深めた。
「もう童舞いを舞う年齢ではなくなりましたなあ。侍従の君の童舞いは、本当に素晴らしかったけれど」
「そうですか? 今はもっぱら笛と笙ですよ」
 照れたように笑って答えると、外へ出て二人はどこへということもなく歩きながら歓談に時を過ごした。歌は相変わらず下手ですけど。そんなことを言いながら馨君が侍従の詰所がある中務省の方へ向かって歩いていると、隣に並んで歩いていた三篤はふいに思い出したように顔を上げた。
「馨君さま。いつか藤壺さまの体調が優れず、里下がりをされたことがあったでしょう。姫宮さまをご懐妊あそばしていた時だったか…」
「はい。私が五歳の時でしたから、もう八年前になりますか」
 馨君が答えると、三篤は両袖の中に手を入れて組みながら歩いた。
「その時、馨君さまと共に、水良さまにも字と歌をお教えして差し上げたのを覚えておいでですか?」
 水良という名前にドキッとして馨君が三篤を横目で見ると、三篤は穏やかな笑みを目にたたえて言葉を続けた。
「内裏へ戻られた後も、大学寮の文章博士たちと共に私も折りを見て水良さまに雅楽や歌をご教授差し上げていたのですが…もうご存じかもしれませんが、かの宮君が、大学寮で学びたいと仰せになられておいでなのですよ」
「水良が!? …と、水良さまが?」
 思わず言ってからあわてて言い直すと、馨君はあの水良が…と立ち止まって顔を赤らめた。まだ稚児姿のくせに、どんな顔してそんなませたことを言ってるんだろう。俺は元服するまで、外を駆け回って遊んでいたのに。黙り込んだ馨君を微笑ましく見つめると、三篤も隣で立ち止まったまま話を続けた。
「まだ十二歳なので元服には早かろうと、ご予定も立っておりません。主上も藤壺さまも、水良さまの元服はもっと後でとお思いのご様子です。水良さまは白梅院さまからも可愛がられておいでなので、角髪を解くのがご不憫なのでしょう」
「…そうかもしれませんね」
 水良の自分よりも小さな愛くるしい手や、無邪気に笑う姿を思い出して、馨君はぼんやりと相づちを打った。それに比べたら、惟彰は小さい頃からしっかりしてたもんなあ。冠姿も妙にしっくり合ってたし。またぜひ雅楽寮へおいでになって下さいと言って笑った三篤に、今度はまた歌をご指導下さいと頭を下げて、馨君は侍従の詰所の方へ歩き出した。戻る前に、まだ一度も一人では絢子に機嫌伺いをしていないことを建礼門を見て思い出すと、馨君はそそくさと内裏へ向かった。
 絢子がいる藤壺は、内裏の西にある陰明門から入ってすぐの所で、正式には飛香舎と言った。女房に取り次ぎを頼むと次の間へ通され、座って待っていると、ふいに廂をトタトタと早足で歩く音が響いた。その人影は御簾の前をあっという間に通り過ぎた。誰だろう、今のは。馨君がそれを目で追うと、人影はまた戻ってきて、下ろしてあった御簾をバッと乱暴にめくった。
「何者!」
 驚いて、馨君は思わず腰を浮かした。片足を立てた馨君を、萌黄の小狩衣に大人のように背の高い総角結いの少年がジッと見つめた。まだ怪訝そうな表情で少年を見上げる馨君に、少年はおかしそうにあははっと声を上げて笑った。
 何だ。
 何なんだ!?
「俺だよ、馨君。三年ぶり」
 思わず力が抜けて、馨君は少年を見上げたままペタンと円座に座り込んだ。水良。呆気にとられて馨君が呟くと、水良は目を細めて馨君の前に片膝をついた。
「兄上からお前の元服の話を聞いて、ずっと気になってた。ゴメンね、文も出さないで」
 ニヤリと笑って水良が馨君の顔を覗き込むと、座り込んだ時についた後ろ手の態勢のまま馨君はマジマジと水良の顔を見た。記憶の中ではまだ自分よりも小さく高い声をしていた水良が、急に自分よりも大きくなって声変わりしている様がとてつもなく違和感で、馨君は真っ赤になったまま水良を無遠慮に眺め続けた。
「三年前の夏以来だもんね、会うのは」
 優しげに目を細めた水良の表情に、馨君は少しだけホッとしてもぞもぞとあぐらを組み直した。今の顔は、ちょっと水良だった。とにかく何か言おうと馨君が口を開くと、ふいに御簾の向こうに女房が平伏してハキハキとした声で水良を呼んだ。
「水良さま! 急にいなくならないで下さいませ! 私はあなたさまみたいに身軽な格好じゃございませんのよ!」
「朝顔」
 馨君の真前に座っていた水良は、女房の声に振り向いて笑った。水良の視線が移ると、ようやく緊張が解けて馨君はほうと息をついた。入ってくれば。水良が言うと、御簾をめくって花橘のかさねに唐衣を着て裳を身につけた見目麗しく若い女房が廂近くに平伏した。
「お初にお目もじ申し上げます。水良さまにお仕えさせていただいております、朝顔にございます」
 内裏の女房らしく、明るくそして優雅に朝顔は挨拶をした。年は自分達と同じほどに見えた。馨君が唖然としたまま条件反射のように会釈すると、朝顔は袖で口元を隠してホホホと笑った。
「水良さまったら、馨君がいらしたって女房が告げた途端に、飛び出していかれるのですもの。驚きましたわ。そりゃあもう、馨君がいらして下さるまで自分からは会いに行かないなんて仰って、拗ね方が半端じゃございませんでしたものね」
「朝顔!」
 咎めるように言って真っ赤になった水良の横顔を、馨君はポカンとして見つめた。は? 誰が拗ねてるって? 馨君が朝顔を見ると、朝顔はニヤリと意地悪く笑って続けた。
「馨君さまの元服式も、藤壺さまから春宮さまと行ってらっしゃいと仰っていただいたのに、馨君さまからお誘いの文が来るまで行かないなんて、駄々をこねられて」
「もういい、下がれ。お前たちも」
 真っ赤になって、水良は馨君から目をそらしたまま手をちょいちょいと払った。深々と頭を下げた朝顔と、馨君の後ろに控えていた女房たちがクスクス笑いながら、さやさやと衣の音を立てて下がっていった。二人きりになると、水良は床の上に直にあぐらを組んで懐かしそうに馨君を眺めた。
「内裏へ会いにきた時、留守だったのはお前の方だったのに」
 そう言ってから、馨君はハッと気づいてあわてて立ち上がった。こちらへお座り下さい。そう言って上座を明け渡すと、きょとんとした水良が見る前で馨君は臣らしく御簾の前に片膝をついて控えた。
「馨君」
「お久しぶりでございます。長の無沙汰をお許し下さい」
「馨君が出仕しだしたって聞いてたから、ずっと毎日、今日は来るか明日は来るかと思ってたんだ」
「え、ホント?」
 驚いて馨君が顔を上げると、さっきまで馨君が座っていた円座にゆったりと腰を下ろして水良は目を細めた。ここに座って。そう言って水良が置いてあった円座を取り出すと、失礼つかまつりますと答えて馨君は水良の下座に当たる向かいに座った。
「…三年ぶりだね」
 そう言って笑う水良はどこか大人っぽく、とても以前の水良とは思えなくて、馨君はドギマギしながらまたジッと水良を見つめた。
「春宮さまも教えてくれないんだもの。こんなに大きくなってるなんて」
 また感心したように息をついて、馨君は水良を眺めた。萌黄の小狩衣も総角も幼い頃と同じなのに、あどけなさの抜けた少年らしい顔と、自分よりも大きな体が見慣れなかった。三年前の水良はまだ子供子供していたのに。ふいにさっき水良が言っていたことを思い出すと、馨君は自分と同じように自分を黙って見つめている水良に問いかけた。
「水良さま」
「前と同じでいいよ。そのために人払いしたんだから」
「水良、お前…俺が会いに来るのを待ってたって、ホント? 元服式の時も、文を待ってたって」
 馨君が尋ねると、水良はバツが悪そうな表情をして目をそらし、朝顔のヤツ…と呟いた。そのふてくされた表情を見て、ふと幼い頃の水良を思い出した。三条邸にいた頃、何でも馨君の真似をしたがって、水たまりを飛び越えようとして落ちたり、木に上ろうとして枝に手が届かなかったりした。そのたびにふてくされて、大きくなったらきっと馨君よりも上手にできるようになるもんなどとぼやいていた。
 ククッと笑って馨君が袖で口元を隠すと、その目に行き当たって水良は何だよと呟いた。何でもないんだ。馨君が答えると水良は黙って、それからふっと目を細めた。
「会いたかったんだ。ホントは」
 ドキッとして馨君が水良を見ると、水良は目を伏せて拗ねたように続けた。
「俺ばっかり会いにいってて、馨君からは滅多に来てくれないんだから。俺から会いに行かなくても、別に寂しくも何ともないのかなと思った」
「バカだな、お前」
「うん…」
 素直に頷いて、水良は恐る恐る馨君を窺った。でも顔見たら、吹き飛んだ。そう言って、水良はしばらく黙り込んでから身を乗り出した。
「馨君は変わってないな。その可愛らしい顔! 三年前とおんなじだ」
「かっ、変わってるよ! 可愛いって何だよ」
 馨君が真っ赤になって答えると、水良は笑った。束帯姿だな。目を細めて水良が馨君の姿を眺めると、気恥ずかしくて馨君は居住まいを正した。

 
(c)渡辺キリ