玻璃の器
 

 藤壺女御への目通りがかなうと、馨君は束帯姿で廂に平伏した。お久しぶりね。ゆったりと脇息にもたれて馨君を目を細めて眺めると、絢子は几帳をどけさせるようにそばにいた女房に命じた。
「子供の頃から、私の膝の上で遊んでいた子ですもの。御簾を下ろしているのに几帳など必要ないでしょう」
「おっ、お恥ずかしい限りにございます! あの折りはご無礼をつかまつりました!」
 自分が宮中へ出仕するようになって、惟彰や絢子がどういう身分の人間かようやく身にしみて分かったのか、馨君は真っ赤になってまた平伏した。あわてた馨君を見てクックッと脇で笑っている水良に、あまり笑ってはダメよと自分も笑いながら言って、絢子は面を上げてちょうだいと続けた。
「まだ小さな子供だったわねえ。本当に大きくてつぶらな目をしていて、可愛かった。これから生まれる我が子もこのように愛らしくあってほしいと、何度も思ったものだったわ。大きな目は相変わらずだけど」
「恐れながら藤壺さま…目の話はちょっと」
 さっき水良にも可愛いと言われたことを思い出して、馨君はフッと自嘲気味に笑った。どうして?と尋ねた絢子に、笑いを堪えて水良が代わりに答えた。
「馨君は、自分の顔がお嫌なんだそうですよ」
「まあ、なぜ? そんな愛らしい顔して。ずっとここにいてほしいぐらいなのに」
 扇の内で笑いながら言った絢子に、馨君は困ったように眉を寄せた。
「私が参内すると、中務省の方々がじろじろ見るので、気が張って休まる時がありません。みな、この大きな目がそのうちこぼれるのではないかと、からかわれるので…」
 しどろもどろになって馨君が言うと、絢子はあははと声を上げて笑った。後ろに控えていた女房たちも一緒になって、可愛らしい若君だことと笑った。その時、ふいに誰が来てるの?と高い声が響いて、廂に座っていた水良が腰を上げると、撫子のかさねを身につけた小さな姫が駆け寄ってきて水良の首筋に抱きついた。
「兄上! この方はどなた?」
 一瞬、芳姫の幼い頃を思い出すような愛くるしい仕草で、水良に抱きついたまま馨君をジッと見つめてその姫は尋ねた。水良を兄上って呼ぶってことは…妹宮さま!? あわてて平伏した馨君に、絢子がこちらへいらっしゃいと倫子に手招きした。
「この方は、あなたの従兄にあたる方よ。藤原芳璃(よしあき)どの。馨君と呼ばれているお方なの」
「ふうん…」
 まだ平伏している馨君の冠をジッと見て、倫子は眉をひそめた。兄上がこんなに優しい顔をしてるのを初めて見た。この方がいらしたからかしら…。絢子のそばに座って御簾の向こうをジッと見つめると、倫子は御簾を上げてちょうだいとそばにいた女房に言った。
「恐れながら、それは…」
「なぜ? あの方のお顔が見たいの」
「倫子、それなら私の所においで」
 笑って水良が言うと、顔を上げた馨君の前で倫子はまた御簾の内から出てきた。じいっと馨君の顔を見ながら水良に近寄ってその膝に座ると、馨君の大きな目とふっくらとした唇を眺めてもう一度ふうんと呟いた。それからぎゅうっと水良の体にしがみついて、馨君がそれに気づいて倫子を見ると、倫子はフンと笑って水良を見上げた。
「男の方には見えないし、兄上の方が大人っぽいわ。どうして兄上よりも先に、冠をかぶってらっしゃるのかしら」
「倫子!」
 あわててその口を塞いで、水良は恐る恐る馨君を盗み見た。案の定、水良からも絢子からも倫子からも似たようなことを言われた馨君は、むうっと唇をつぐんでいた。馨君。忍び笑いをもらしていた絢子が、ふいに馨君に声をかけた。馨君が顔を上げると、扇の内で嫣然と笑って絢子は言った。
「惟彰や水良だけでなく、倫子のことも妹とも思ってよろしくお願いしますわね。芳璃どの」
 改めて名を呼ばれ、馨君はもったいないお言葉でございますと答えて頭を下げた。

 
(c)渡辺キリ