玻璃の器
 

 しばらくムスッと黙ったまま歩いていた馨君が、ふいにお前まで可愛いだなんてとボソッと言った。
 隣を歩いていた水良はふふっと笑って、だって本当のことなんだもんと答えた。惟彰のいる梨壺へ行こうとした馨君についてきた水良は、渡殿(わたどの)の途中で淑景舎へ行ってみないかと言った。今は淑景舎を使っている妃はいなかった。馨君が慣れない内裏に返事を渋っていると、水良は行こうと言って馨君の手を引いた。
「今、桐の花が美しいから」
 水良が言うと、馨君は手を取り返して赤くなった。子供の頃とは違うのに。馨君が水良につかまれた手をさすりながら言うと、水良は一瞬、馨君をジッと見て、それから歩き出した。
「いいじゃない。こっちはまだ子供なのだから」
「水良だって、もうすぐだろ」
 桐壺は随分遠くにあった。その長さが、少し息苦しかった。目を伏せたまま先導の女房について歩いていると、女房が桐壺にございますと声をかけた。
「二人で話したいから、もう戻っていいよ。梨壺へは勝手に行くから」
「そうは参りません。侍従の君さまもおられますのに」
「すぐそこじゃない。大丈夫だよ。何かあったら馨君が守ってくれるから」
 水良が笑って言うと、女房たちは渋々と下がって行った。水良が慣れたように庭に向かって伸びる階に腰を下ろすと、馨君は簀子にあぐらを組んで座った。
「いつもは一人で来るんだけど、今日は馨君がいるから」
 女房の最後の一人が見えなくなると、水良は苦笑してから桐を見上げた。花が咲き始めた桐の木は、淡い紫色が美しかった。確かに綺麗だな。馨君が歎息すると、水良はうんと頷いて桐を見上げた。
「藤壺の藤棚も美しいけど、こっちの方が慎ましやかで俺は好きだな。父上は藤の方がお気に入りみたいだけどね」
「それは本当かもしれないけど…お立場上、そう仰せなのだろう。藤よりも桐が好きだなんて言ったら、桐壺に娘を入れたがる公卿たちで騒ぎになるからな」
 馨君が答えると、水良はそうかもなあと呟いてぼんやりと桐を眺めた。しばらく黙ったまま二人で花を眺めていると、ふいに水良が大きな欠伸をして振り向いた。
「膝貸して」
「え?」
 馨君が尋ね返すと、それにはもう答えず水良がゴロンと寝転んで、馨君の膝に頭を乗せた。総角に結った髪が柔らかに馨君の足首に流れた。風がさやさやと桐の葉を揺らす音が二人の所まで届いた。
「…子供だなあ、まだ」
 馨君が小さな声で囁くと、水良はそうだなあと呑気に答えた。お前、いつも藤壺にいるの? 馨君が尋ねると、水良は頷いて目を閉じた。
「でも、元服したら内裏を出たいんだ」
「え? どうして」
 馨君が顔を覗き込んで尋ねると、うっすらと目を開いて水良は上を向いた。まともに目が合うと、ドキッとして馨君は口をつぐんだ。黒い目でジッと馨君を見上げ、水良は答えた。
「俺も母上も、血はつながらなくとも互いを本当の親子だと思っているけれど、大人になった俺を藤壺に置けば、また母上が何か言われるに違いないから」
「…知ってたの?」
 馨君が呟くと、水良は軽く笑って、女房というのは黙っていろと言っても無理な人種なんだよと言った。その明るさが少し悲しかった。馨君が水良の髪をなでると、その手をつかんで水良は目を閉じた。
「できれば源になりたいな。お前と同じ臣籍に下って、兄上をお守りする方が俺には合っている気がする。父上にもそう申し上げているのだけど…母上が許さないんだ」
「そりゃあ無理だよ。お前は…」
 もし惟彰に何かあれば、お前が主上になるのだから。
 言いかけて、口を固くつぐんだ。二人きりでも、そしてもしものことでも、惟彰が廃嫡する話など口にすればどこで誰が聞いているか分からない。黙り込んだ馨君の柔らかな手をなでると、水良は気持ちいいなあと呟いた。

 
(c)渡辺キリ