玻璃の器
 

 馨君が来ていると藤壺の女房から聞いて、梨壺にいた東宮惟彰はしばらく女房の一人と碁を打ちながら訪れを待っていた。どこか嬉しそうな惟彰をチラリと見ると、女房はニッと笑ってパチンと碁石を置いた。
「まるで、夜のお召しをお待ちになる時のような顔をしておいでですわよ」
「そうやって人を動揺させて勝とうなんて手には乗らないよ、玉里」
 玉里と呼ばれた女房は、ふふんと色っぽく笑って上目遣いに惟彰を見た。玉里も見れば驚くよ。そう言って、惟彰は碁の返し手を打った。
「馨君はね、迦陵頻の舞姿を見て姫と間違えたぐらい、艶やかで美しい方なんだよ。角髪に桜の花を挿した姿は春の精のようでね。こないだの元服で冠をかぶっておしまいになったけど、それでも思わず見とれてしまったぐらいだ」
「好みなんですのね。まあ、侍従の君さまがお美しい方だというのは、内裏の女房たちが騒いでいるぐらいですから相当なものでしょうけど」
 生意気そうな口調で言って、玉里はふいに振り向いた。御簾向こうに平伏した女房が、水良さまと侍従の君さまが、桐壺へお寄りになってからこちらへ参られるそうでございますと伝えた。そうなの? 待ってるのに。眉をひそめた惟彰を見て、玉里は袖で口元を隠してクスクスと笑った。それを見て赤くなると、惟彰は立ち上がった。
「勝負は後だ。私から行くよ」
「春宮さま」
「どうせ水良のことだから、桐を見ているのだろう」
 そう言って、惟彰は御簾から廂へ出た。玉里が後を追った。玉里だけでいい。馨君は連れてくるから待ってなさい。振り向いて他の女房たちに言うと、惟彰は扇を胸元に挿してスタスタ歩き出した。みな、楽しみに待っておりますのに。玉里が言うと、惟彰はいいんだと答えた。
「どうせ、梨壺へ戻るのだから」
「隣の間に、女房たちが観覧席を設けて、侍従の君のおいでを待っているようですわよ」
「まるで見せ物みたいだなあ」
 苦笑して、それからあの君なら仕方がないかと惟彰はクスクス笑った。渡殿をゆったりと歩いて桐壺へ向かいながら、馨君はねと呟いて、惟彰は後ろからついてくる玉里を横目で見た。
「とても真っ直ぐで気さくな方で、私が文を頼む者がずっと女房の子かと思っていたぐらい、誰とでもハキハキと話してとても気持ちのいい方なんだ。水良が兼長どのの三条邸で世話になっていた時、いつも馨君に遊んでもらったそうでね、内裏へ戻ってからも馨君と遊びたいと大泣きして、女房たちがみなオロオロしていた」
 楽しそうに話す惟彰を窺うと、玉草は小さく笑ってふうと息をついた。春宮の覚えめでたき侍従の君さまね。玉里が黙って聞いていると、惟彰はふいに思い出したように呟いた。
「芳姫は、何をしておいでだろう…」
「芳姫さまと馨君さまは、二個一なんですのね」
 笑いながら玉里が言うと、惟彰は少し考えて、そうかもしれないと真顔で答えた。いつも芳姫を思う時は馨君のことも同時に思い出した。似ていると思えばこそだな。桐壺に着くと桐の木が生えている庭を覗いて、惟彰は足を止めた。
 階に足を投げ出して、水良が眠っているようだった。膝を貸している馨君は、桐の花をぼんやりと眺めていた。そのふっくらとした唇と大きな目を見て惟彰は息を飲んだ。水良の手が、馨君の手を握りしめていた。
 まるで絵のような風景に、惟彰は息をひそめた。声をかけづらい雰囲気に、疎外感と共にモヤリとした息苦しい何かを感じた。バカな…一人は自分の弟宮ではないか。チラリと自分を見た玉里の視線に我に返ると惟彰はふいっと一歩進んだ。気配に気づいて馨君が顔を上げた。春宮さま。後ろにいる玉里を見て馨君が惟彰を小さな声で呼ぶと、人さし指を唇に当てた。
「眠っておいでです。夕べ、遅くまで漢籍を読んでいらっしゃったそうなんです」
 惟彰が近づくと、馨君は唇の端に笑みを浮かべて囁いた。玉里が馨君の表情に一瞬見とれて、それから赤くなった。なるほど、春の精だわ。白い肌に五月の日差しが当たって、輝くばかりにきらめいて見えた。水良の顔に直接日差しが当たらないよう、懐紙をかざしている馨君を見て惟彰は無表情で呟いた。
「…水良は」
 言いかけて、やめた。馨君の膝に頭を乗せて眠っている水良の顔は、あどけない頃の面影を少し残していた。起きそうにないな。その顔を眺めると、惟彰はようやくフッと笑って振り向いた。
「玉里、行こう」
「お待ちになりませんの?」
 玉里が尋ねると、いいよと言って惟彰は目を細めた。春宮さま? 惟彰が待っていたことを知らない馨君がきょとんとすると、惟彰はふいに馨君の顔に触れた。
 頬から顎に触れて、その顔を上げさせて。
 ジッとその愛らしい大きな目を見つめると、手を離して惟彰は優しげな表情を浮かべ、馨君の耳元に囁いた。
「侍従の君、時々は梨壺へもいらっしゃい。あなたがおいでになれば、みな喜ぶから」
「もったいないお言葉にございます」
 水良を起こさないように気をつけて小さな声で答えると、馨君はにこりと笑った。チラリと水良を振り返って見て、惟彰は玉里に行こうと声をかけた。また元来た道を戻ると、二人が見えなくなった辺りで玉里は惟彰に声をかけた。
「膝でしたら、玉里がお貸しいたしますのに。侍従の君さまだけでもお連れになれば」
「…いいんだ。気持ちよさそうに寝ていた」
 答えた声は少し強張っていた。春宮さま? 玉里が声をかけると、惟彰は何も言うなと言って早足で歩いた。

 
(c)渡辺キリ