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宮中から牛車で三条邸へ戻ると、馨君は芳姫のために頼んでおいた絵巻物が届いているのを見て、今は芳姫が使っている東の対へ急いだ。小霧と双六をしていた芳姫は、馨君の訪れに手を止めて声を弾ませた。
「兄上! 大内(おおうち)へ詰めていらっしゃるって伺ってましたけど」
「うん、さっき戻ってきた。父上は主上のお召しで、まだ残っておいでだけど」
女房が整えた円座に腰を下ろして、馨君は若葉や他の女房に持たせていた絵巻物や珍しい細工の貝合わせを芳姫付きの女房に渡した。こないだ、新しい物を見たいと言ってたから。そう言った馨君に、芳姫は意地悪そうに答えた。
「お忙しそうにしてらっしゃるから、妹のことなどお忘れなのかと思っておりましたわ」
「それは俺じゃなくて、他の方に言いたいんじゃないの?」
「まあ、嫌な兄上」
「嫌な兄上は、大事な妹が気にかかっておいでの方にお会いしてきたよ。叔母上に会った後、梨壺へ行ったんだ」
馨君が言うと、芳姫は袖で口元をおおって赤くなった。お元気にしていらしたの? もじもじと小さな声で尋ねた芳姫に、馨君はニッと笑って答えた。
「どうかなあ」
「意地悪ね。いいわ、父上に聞くから」
「嘘だよ。お元気そうだったよ。俺が出仕するようになってから一度も梨壺へ行かないので、時々は来るように仰ってた」
笑いながら言うと、馨君は宮中の様子を次々と話した。難しい仕事の内容は省いて、どんな人たちと働いているかや三篤とも会って来たことや、内裏の女房たちの口さがない様子などを話すと、芳姫や女房たちと笑った。本当に参るよ。内裏の女房たちはみな、こちらをまだ子供だと思っていらっしゃるから。内裏の簀子を歩いていると、御簾の内から袖を引かれた話を馨君がすると、芳姫は少し黙ってそれから首を傾げて尋ねた。
「それは子供扱いしているんじゃないんじゃなくて?」
「え?」
きょとんとした馨君に、まあいいかと肩をすくめて芳姫は脇息にもたれた。閨のことはいずれ分かるのだし。家の中にいて女房たちの噂話や猥談を耳にする機会の多い芳姫は、ずっと外を遊び回っていて、しかも愛らしくあどけない顔だちをしているせいか誰からもその手の話をされなかった馨君が、まだ男女の睦みごとに無知なのを微笑ましく見ていた。兄上らしいわ。芳姫がニヤニヤと笑ってまだぽかんとしている馨君を見ていると、ふいに東の門の方で騒々しい音がして、小霧が眉をひそめた。
「何でしょう。ちょっと見て参りますわ」
素早く立って、小霧が御簾から出て行った。お待ち下さりませ! 年嵩の女房がそう言っている声が二人の所まで届いた。父上か? それにしては…眉をひそめて几帳を置くように女房に言いつけると、馨君は御簾から外へ出て目を見張った。
「こ…惟彰さま!」
いつもの優雅な仕草とは似ても似つかない、肩で荒く息をしながら惟彰がスタスタと簀子を歩いてくるのが見えた。春宮さま!? 几帳の内で芳姫が驚いたように声を上げた。先触れもなく、伴の女房も従者もいず一人で馬を駆って内裏からここまで来たらしかった。馨君があわてて簀子に平伏すると、惟彰は馨君の前に立って口を開いた。
「姫は」
「おっ、恐れながら、たとえ春宮さまとて、芳姫は私の大事な妹でござりますれば…」
「今、兼長どのに、芳姫を水良にという話をされているのだ」
「え…だ、誰が」
「主上だ」
惟彰の声が、重くのしかかった。水良に芳姫を? そんな…呆然と惟彰を見上げた馨君を一瞥して、惟彰はその脇をすり抜けた。安心せよ。母上が今、父上をお止めしている。そう言って早足で歩くと、惟彰はバッと御簾をめくって中へ入った。
芳姫の衣の裾が、あわてて立てられた几帳の端からこぼれていた。その前に、女房が真っ青になって平伏していた。身を呈して止めなければならない立場ながら、相手は東宮、下手に手を出せば首が飛びかねない。下がれ。そう言って女房を押しのける惟彰の後ろで、馨君がまだ揺れる御簾の隙間から中へ飛び込んできた。
「惟彰さま! お願いでございます!!」
後ろから抱きついて、馨君は叫んだ。
「芳姫は町の女子とは違います! せめて、せめてしかるべき順序を経てあなたさまに差し上げとうございます…! それを姫も望んでいるはず!!」
「文なら何度も出している」
「しかし…っ」
惟彰に突き飛ばされて、体の軽い馨君はダンッと床に叩きつけられる格好になった。若君! 女房の悲鳴が上がった。その隙間をぬって惟彰が芳姫の衣の裾をつかんだ。几帳の内で、芳姫は袖で顔を隠して床に臥して震えていた。
「芳姫…」
今なら、まだ間に合う。
「芳姫。私の物になってほしい」
「…春宮さま」
袖の内から、震える声が小さく響いた。ドキッとして惟彰が衣をつかむ手に力を込めると、芳姫は顔を伏せたまま真っ赤になって答えた。
「わ…私は、あなたの元以外には、どこへも行きません。たとえ主上から水良さまにというお話が来ても…あなたさま以外の方に通われるぐらいなら、あ、尼になります」
ひっくとふいにしゃくり上げる音が響いた。芳姫。惟彰の声に、ビクンと震えて芳姫は黙って顔を伏せたまま首を横に振った。夫となる男以外には父親ですら顔を見せないのが深窓の姫の常識で、今にも惟彰に触れられそうな芳姫のこの状態はかなり異常だった。惟彰さま。呆然と呟いた馨君の声に我に返ると、ふいに芳姫の衣から手を離して惟彰は立ち上がった。
「…すまなかった。恐がらせてしまって…帰る」
そのまま、ふいと惟彰の気配が遠ざかった。御簾がめくれて惟彰が外へ出ていった。春宮さま! 追っていく馨君の声も遠ざかると、緊張のあまり震えていた芳姫がふっと倒れた。
「よ、芳姫さま!」
気を失った芳姫に、そばにいた女房たちがあわてて介抱した。目を閉じていたのは一瞬で、また気を取り戻すと、衣を引かれた感触を思い出して芳姫はパニックになった。今、ここに惟彰さまが。そう思うだけでまた気が遠くなりそうで、あわてて気つけの白湯を持ってきた小霧の顔を見て芳姫は大きく息をついた。 |