突然の惟彰の三条邸訪問は、真昼に馬を駆ったせいで都中に知れ渡ることとなった。
当然、白梅院の元へもその噂は伝わり、水良の元服に合わせて芳姫を、という意向を示していた白梅院は烈火の如く怒り狂った。どうなっておるのだ! 白梅院の住む一条白梅院では自分の主人の顔に泥を塗られたと感じたのか、惟彰と兼長…ひいては絢子と兼長が謀ったのではと噂する者もいて、とにかく宮中へ向かおうと白梅院が準備をしている時に内裏からの来訪者が告げられた。
「誰が来たと言うのだ」
御引直衣(おひきのうし)に扇を持った白梅院が荒い口調で尋ねると、取り次ぎの女房が脅えたように答えた。
「あの…内裏より、水良さまがおいででございます」
「水良が? 惟彰ではないのか」
「主上から、お文をと」
「おじいさま、お久しゅうございます」
女房の後ろから、水良が顔を出した。非公式とはいえ、主上からの文を持っているためか、水良はきちんと童直衣に身を包み総角に結った髪にも飾りを挿していた。水良か。一瞬、目を細めて、それから白梅院はまた怒ったように口を開いた。
「惟彰はどうしたのだ。本来ならあれが来ねばならぬはず」
「兄上は、父上と母上に叱られて梨壺で謹慎してますよ。内裏でもちょっとした騒ぎになってしまったから」
そう言って御簾の内すぐの所に座ると、水良は持っていた文箱を差し出して頭を下げた。主上より、おじいさまへお文を預かって参りました。水良が言うと、白梅院はムッとして文箱を開くよう女房に告げた。
「…ふむ」
中から見事な手の文を取り出して開くと、これは頼善の代筆ではないかと呆れたように呟いた。女房がしつらえた座に腰を下ろすと、文をざっと読んでから白梅院は大きく息をついた。
「なんと…水良、お前が自分から、元服と共に臣籍に下りたいと?」
「このまま内裏にいるよりも、ずっと楽しそうなので」
あっさりと言って、水良は下座に作られた席に腰を下ろした。祖父と相対する形になり、その威厳と緊張感のある顔を見上げて水良は続けた。
「私が父上にお願い申し上げましたら、それはならぬと仰せになりました。そなたの母上は藤壺なれば、源になるような身分ではないと。将来が不安なら、芳姫を迎えて大納言どのを後見とすればよいと仰せになって…」
「当たり前だ。今は藤壺なれど、そなたの本当の母親は朕の父帝の姫宮なるぞ。誰がお前を臣になど…それに、惟彰に皇子が生まれねば、そなたが春宮になるのだから」
「生まれますよ。二人も妃がいて、芳姫も迎え入れるおつもりなのですから」
「兼長の一の姫を…それは惟彰が言っておるのか」
「今は主上も承知しておいでですよ。父上がご存じなかったぐらいですからおじいさまも知らないと思いますけど、兄上は童姿をしておいでの頃から、ずっと芳姫を思って文を取り交わしておいでなのです。そこに横恋慕して芳姫を娶るなんて、俺は嫌ですよ」
大人びた口調で言って、水良は真っ直ぐに白梅院を見つめた。それは誠か…。驚いて文を膝の上に落とすと、頷いた水良を見て白梅院は深いため息をついた。
「…おじいさま、怒ってますか」
「怒っている人間に、怒っているかと尋ねるな」
ふううとまた長い息を吐くと、文を乱暴に払いのけて白梅院はあぐらを組み直した。おじいさま。水良が真っ直ぐに白梅院を見つめた。その顔を見つめ返すと、白梅院は目を細めて口を開いた。
「そなたは本当に母宮にそっくりだ。人の怒りを解いてしまうな…惟彰に伝えるがよい。芳姫を迎える際、遠慮をして朕を呼ばぬなんてことのないように、と」
「おじいさま」
ニコリと笑った水良に、白梅院はううんと呻いた。芳姫が水良の正室になれば、将来、兼長が大臣の位に昇進した時に有力な後ろ楯となってくれると思うたが…。まだ眉を寄せている白梅院を見ると、水良は目を伏せて言った。
「おじいさま。俺は室(妻)などいりませんよ」
「何を言う、水良」
「元服したら、内裏を出て大学で学ぼうと思っています。頼善どのから大学寮での話も聞いているし…三篤どのもおられますし。父上には母上以外にも他の更衣との皇子もおいでなのですから、俺がいる必要はないと思っているんです」
「バカなことを申すな、水良。大学で学ぶことと室を持つことはまた別のこと。今は子供なれば、考えられぬだけのことだ」
「そうですか? 女房たちから色事の話を聞いても、何だかあんまり興味が持てなくて」
ため息まじりに言った水良に、白梅院は大きくなればまた考えも変わろうと答えた。ともかく、文を。そばに控えていた女房に硯箱を用意させると、持って行ってくれるなと水良に言って白梅院は墨を擦り始めた。
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