玻璃の器
 

 ようやく宮中から三条邸へ戻った兼長は、牛車から降りた途端に主上からの早馬が来て、今度は馨君を連れてまた蜻蛉帰りに宮中へ戻っていった。大納言の子息とはいえ下っ端侍従の馨君が主上の昼の御座(ひるのおまし)の前に座ることなどこれまで滅多になく、緊張のあまり押し黙ったまま馨君は父親の一歩後ろで平伏していた。
「父院より文が参った。兼長…私の惟彰に、姫をくれるというのか」
 御簾内の、さらに昼の御座から主上に声をかけられ、否応もなく兼長は唾を飲んだ。喜んで姫を差し上げとうございます。そう答えた兼長に、主上は面を上げよと呟いた。
「私が亡き内大臣より姫を、藤壺を内裏へ迎えた時のことを思い出すよ」
「主上…」
「あの時は、雪の花が咲いていたな」
「はい。私は父内大臣の後ろに控え、ただ一心に藤壺さまのご多幸をお祈り申し上げておりました。主上はまだ春宮さまと呼ばれておいででございましたな」
「あの頃はまだ右も左も分からなんだ。それが主上となり、そなたは大納言となり、今は息子が侍従の君か…同じことを思っていような、馨君」
 突然、名前を呼ばれて馨君は弾かれたように顔を上げた。おっ、仰せの通りにございます。耳まで真っ赤になって答えると、馨君は目を伏せた。
 惟彰の元へ芳姫を嫁せば、幼い頃からずっと思い続けてきた恋慕の情が叶えられるだろう。惟彰は頭もいいし控えめで、きっとよい主上になるだろう…そんなことを考えていた。
 けれど…。ちらりと主上の御引き直衣の裾を見て、馨君は息を潜めた。
 ホッとしてるんだ。安堵、している。水良に芳姫をやらずに済んだこと。何で? 長い睫が瞬いた。白梅院さまのお怒りもなく、事を納めることができたのは水良さまのおかげにございます。父親の言葉にハッとして馨君がビクリと肩を震わせると、それには気づかず主上がそうかもしれないなと呟いた。
「水良…あれは不思議な子だよ。望めばどのようなことも叶う立場にありながら、何も持たぬかのようにいつも身軽な表情をしている。それがよいのだろうな。父院は水良を大層、気に入っておられる」
「私がお預かりいたした折りにも、水良さまは北(楽子)にも女房にもよう懐かれて、愛らしい限りにございました」
「できれば今のまま、童姿のまま留めておきたいが…そうも行くまい。馨君」
「はい」
 馨君が顔を上げると、主上は目を細めて口を開いた。
「馨君とて、愛らしい角髪を落として冠姿になったのだからなあ。まだ通うような愛しい人はいないの?」
「えっ?」
 耳まで真っ赤になって背筋を正した馨君に、周りの女房たちが袖の内でクスクスと笑った。通うって通うって。カアッと頭に血が上って俯いてしまった馨君をチラリと振り向いて見ると、兼長は苦笑いしながらどうも奥手で…と申し訳なさそうに答えた。
「参内にも慣れましたら、よき時を選んでよき姫を…とは思っておりまする」
「私にも姫は幾人かいるけれど、年の釣り合いを考えるとみな幼子ばかりだからなあ。馨君がそれほど愛らしい顔立ちをしておいでだから、なまじな姫では見劣りするだろうな」
「もったいないお言葉にございます。なに、今はまだ童も同様。大きくなればあどけなさも抜けましょう」
 その場に突っ伏したい気持ちをグッと抑えて、馨君は赤い顔のまま俯いた。元服したのに、やっぱりまだどこか子供っぽいのだろうか。この所、着替える間もなく着た切り雀の束帯の袖を眺めると、馨君は他には気づかれないように小さな息をもらした。

 
(c)渡辺キリ