玻璃の器
 

 東宮の謹慎は、面白がった主上がもっともらしいことを言いながら解かなかったおかげで、予想されたよりも随分長い物となった。
 東宮惟彰の長の無聊をなぐさめるためと、それから内裏へ入る芳姫のために、他の妃や内裏の女房たちへの贈り物まで持参して馨君は内裏通いに励んだ。女の元へ通う時は、案外こんななのかもしれない。従者であり乳兄弟でもある熾森に珍しい絵巻物や菓子を持たせて、参内のない日も馨君はせっせと内裏へ通った。
「笑いごとじゃないよ。誰かさんが無茶するおかげで、こっちはてんてこまいだ」
 人払いをした途端、ぶつくさ文句を言い出した馨君に、袖の内でクックッと笑いながら惟彰は目尻の涙を拭いた。ゴメンゴメン。そう言って目を細めると、気軽な薄物の直衣姿で惟彰は馨君を眺めた。
「こうして馨君が来てくれるなら、蟄居も悪くはないな。いっそのこと、梨壺を宿直所にしてはどう?」
「冗談言わないでくれ…あ、そうだ」
 言って胸元から扇を出すと、馨君はそれに芳姫からの結び文を置いて床を滑らせた。お待ちかね。そう言って馨君がからかうような笑みを浮かべると、惟彰は嫌な兄君だと呟いて扇ごとそれを拾い上げた。
 文を開いてそれを読む惟彰の表情は、穏やかで嬉しそうで、それを見るとホッとして馨君は立ち上がった。もう行くの? 驚いて惟彰が顔を上げると、馨君は頷いた。
「これから宣耀殿の濃姫さまの所へご機嫌伺いに行くんだ。父上に言いつけられちゃって」
「そうか…面倒かけるな。澪の所へも行ってくれたんだろ?」
「澪姫さまはお優しい方だったし、女房たちも控えめでとてもよい雰囲気だったよ」
 そう言って御簾を持ち上げると、また来ると告げて馨君は外に出た。熾森! 庭で辺りを眺めながら待っていた熾森が振り返った。もう終わりですか? 熾森が尋ねると、馨君は濃姫さまの所へ行くと声をかけて歩き出した。
「濃姫さまといえば…中納言行忠どのの二の姫でございますな。お美しい姫だと評判でございますが」
「そうらしいな。行忠どのには正室との姫が三人いるとか言って、父上がうらやましがってた。三の姫も春宮さまが即位されたら入内なさるかもしれないって」
「珍しいことではありませんからな、姉妹そろって入内というのは」
 飄々と言って、熾森は持っていた螺鈿のついた香壺箱(こうごのはこ)をよいしょと持ち直した。いつも思うんだけど、お前、何でそんなジジイみたいなしゃべり方なの。ふいに馨君が尋ねると、熾森はニヤリと笑って庭から孫廂を歩いている馨君を見上げた。
「お小言を言っている間に、気が老けたのです」
「バカなこと言って…あ、もし、女房どの」
 濃姫のいる間が近づいて、馨君は優雅に歩いていた女房に声をかけた。チラリと振り向いた女房は、まるで馨君が見えなかったかのようにまたさやさやと衣の音をさせて歩いて行ってしまった。
 その束帯がいけなかったんじゃないですか? 呆気にとられた馨君に熾森がため息まじりに言った。内裏で束帯を着ているということは、宮中での直衣の着用を許されていない、特に四位以下の殿上人である訳で、気位の高い内裏の女房だと身分の低い者と思われて見下されたり無視されることもあった。父親はまだ大納言とはいえ立派な公卿で、しかも祖父が前内大臣である馨君は、その女房の扱いにむうっと唇を尖らせた。
「ほら、頑張って下さいよ。私だと余計にダメなんですから」
 熾森に言われて、馨君はスタスタスタと歩いて、今度はこちらへ歩いて来た萩のかさねを身に着けた女房に声をかけた。
「もし、女房どの。私は侍従をしている藤原芳璃と申す者。父大納言兼長の使いで濃姫さまにお目通り願いたいのだが」
 馨君が言うと、女房は悠然と微笑んでこちらにございますと馨君を案内した。父君のご威光ですな。庭から呟いた熾森にうるさいっと一喝すると、こちらでお待ち下さいと座を廂に作られ、馨君は円座に座った。香壺箱を持ったまま庭に控えていた熾森が、ふいにククッと笑った。
「何だよ」
「濃姫さまの局(つぼね)ならば行忠どのの局も同じ、言うなれば敵情視察という所かと」
「バカなこと言うなよ。行忠どのとて、別に父上と仲違いしたい訳じゃないだろ」
「分かっております。でも、私は分かっていても、ここの女房もそう思って下さるかどうかは…せめてほら、参賀のために作らせた豪奢な袍でもお召しになればよかったですね」
「何言ってんだ」
 言いかけて、馨君は口をつぐんだ。隣の間からクスクスという忍び笑いが響いて、馨君はあわてて居住まいを正した。藤壺でも同じだっけ。女房が話のタネに覗いているんだろう。緊張した面持ちで馨君が庭を眺めていると、廂から女房が来て馨君に声をかけた。
「馨君さま、濃姫さまがお会いになられるそうでございます」
「ありがとう」
 馨君が立ち上がると、熾森が立ち上がった。従者どのはそちらでお待ち願えますか。振り向いて女房が言うと、熾森は肩をすくめて階から女房に香壺箱を渡した。
「女房どの、お落としにならぬよう。中の香が砕けては、大きいまま取り寄せた意味がありませぬからな」
「分かっておりまする」
 標準よりも大きく細工の見事な香壺箱を受け取ると、よろめきながら女房が歩き出した。誰ぞある! あわてて誰かを呼ぶ女房に二人して後ろで声を忍ばせて笑うと、馨君は別の女房が廂にしつらえた円座に腰を下ろした。
「宣耀殿(濃子)さま、初めてお目にかかります。中務省にて侍従の職を任ぜられております藤原芳璃と申します」
 できるだけ愛想よく見えるように微笑むと、効果以上の艶やかな表情に御簾内の女房たちが息をついた。評判通りの美しい若君さまですわね。濃姫のお付き女房の逢坂が扇の内で囁いた。静けさがしばらく続いて、どうしよう…と焦って言葉を続けようと馨君が口を開くと、ふいによく通る笛の音のような声が響いた。
「お噂は春宮さまより伺っておりますわ」
 人見知りでほとんど話すことはないと惟彰から聞いていた馨君は、てっきり女房から返答があるものと思っていた。驚きを飲み込んで思わず無表情になった馨君の前で、控えていた古参女房が静かに囁いた。
「…宣耀殿さま」
「いいのよ。芳姫さまの兄君ですもの。芳姫さまが入内なされば、これからは何かとお会いする機会もありましょう」
「あ、の…宣耀殿さまは調香がお好きと伺いましたので、珍しい物をお持ちいたしました。どうぞお使い下さい」
 芳姫の名前がいきなり出るとは思わず、ドギマギしながら馨君がしどろもどろに答えると、御簾内のさらに几帳の奥に座っていた濃姫が密やかな息をもらした。話のタネに香の説明をしようと思っていた馨君が顔を上げると、濃姫はホホホと笑った。
「そうやって格子(こうし)を開け放っていると、日差しが入ってお美しく映えること。芳姫さまもさぞかし貴殿に似てお美しい方なのでしょうねえ」
「いえ…いつまでたっても子供で困ります。宣耀殿さまのように大人びてくれるとよいのですが」
 言いにくそうに馨君が答えると、そばに控えていた逢坂が口を挟んだ。
「まだ裳着も済まされぬ童姫ならば、それは当然のこと。兼長どのも大層お可愛がられておいでと聞いております。何かと気苦労の多い内裏での生活なれば、お兄君の馨君さまもこうして姫さまのご機嫌伺いに、来たくもない宣耀殿へと足を運ばねばなりませぬなあ…」
 思わずうっと言葉を詰まらせると、馨君は胃がキリキリ痛むのを感じながらそのようなことは…と呟いた。敵情視察と言った熾森の言葉を、今さらながら思い出した。これからも末永くよろしくお願いいたします。ようやく絞り出すように言って頭を下げた馨君の耳に、女房たちのさざめくような笑い声が届いた。

 
(c)渡辺キリ