玻璃の器
 

 濃姫との対面を苦にしている間もなく、父兼長、家司の為資と共に芳姫の裳着や東宮妃入内の準備を進めていた馨君は、本当に目の回るような忙しさだった。藤壺だけではなく、主上の女御や更衣にも父とは別にそれぞれ挨拶を済ませ、芳姫の裳着のための衣装を三条邸の御匣殿(みくしげどの)に頼んだり、まだ慣れない出仕疲れも重なって馨君はへとへとだった。織物の上手い女に衣を織らせるために四条へ向かう予定が陰陽師に方違え(かたたがえ)を薦められ、為資が通う女のいる屋敷へ向かったのは、参内から戻ってすぐのことだった。
「一夜のことなれど、ご迷惑をおかけいたします」
「いいえ、ご自分のお邸とも思ってごゆるりとお過ごし下さいませ」
 為資よりも少し年上の小太りな女は地味な顔立ちで、年頃は自分の母親ぐらいに見えた。けれど、大納言家の家司が通っているだけあって身なりはきちんとしていて、家の中もこざっぱりしていた。大納言家の若君だと紹介されたために屋敷の中でも一番いい部屋の上座に通され、酒をつがれて馨君はあわててそれを断った。
「いえ、酒は結構です。できれば休みたいのですが」
「なれば、寝所を整えさせましょう。まあ、でも残念でございますわ。大内でのお話などお伺いできるかと思っておりました」
「すみません…機会があればいずれ」
 申し訳なさそうに答えると、馨君は欠伸をかみ殺した。方違えや物忌みでもなければ、今はゆっくり休んでいる時もない。内裏や大納言家の優雅な女房たちとは違う、ガッシリとした体格の女房たちがてきぱきと寝床を整え、着替えを手伝ってくれた。それでは、明日の朝、お起こしに参ります。そう言って女房が灯台の火を消すと、辺りは自分の手も見えないほど真っ暗になった。
 他人の家はまた違う香りがして、また忙しさが体に染みついているせいか、疲れて欠伸が出るのに馨君はなかなか寝つけなかった。熾森を呼んで碁でも打とうか…でも、それじゃ早く休みたいって言ったのに女主人に失礼だろうか。うだうだ考えながら寝返りばかり打っていると、ふいに衣擦れの音がして、ようやくうとうとし始めていた馨君は現実に引き戻された。
 それは東の方から、ひたひたという足音と共に響いた。この家の女房か誰かに通う男でもいるのだろうな…。ぼんやりと考えているとふいにカタンという妻戸(つまど)を開ける小さな音がして、馨君は目を開いた。このそばに局などあったかな。重い意識の中でぼんやり考えていると、その足音は自分のいる所の前で止まった。
「姫…?」
 御簾をめくり、立ててあった几帳をつかんだ人影に、あわてて身を起こして誰何しようと馨君が声を上げると、馨君の口を男の手が塞いだ。何者!? 剣に手を伸ばした馨君の烏帽子に気づいて、あれっ!?と素っ頓狂な声が上がった。暗闇の中、相手を確認するために馨君の体をベタベタと触りまくって、それから男は手を離した。待て! ようやく剣をつかんで鞘から抜くと、息も絶え絶えに馨君は逃げようとした男の袖をつかんだ。
「間男じゃねえよ! こ…この家の女房に忍んできたんだ!!」
「嘘を言え。さっきは『姫』と声をかけたではないか。それに私はこの家の姫に通う者ではない」
 馨君が呆れたように言うと、何だとホッと息をついて男は座り込んだ。それでも振り向いて馨君が抜刀しているのを見ると、青ざめて切らないでくれよと言った。
「何者?」
「…それは、ちょっと」
「言わねば女主人どのを起こすまで」
「分かりましたよ! もう…とりあえず、刀を納めよ。私は源充時。右衛門佐だ。けして怪しい者や下賤な者ではない」
「みっ…! では、蛍光親王さまの…時の宮さま!?」
 あわてて刀を鞘に納めると、馨君は単衣のまま下座に控えた。今は臣下して源姓を名乗っているが、皇孫で元服前までは宮家の一人だった充時は、たとえ同じ年でも馨君より立場は上だった。何でそんな男がここに…馨君が呆然として時の右衛門佐を見ると、時の右衛門佐は固いヤツだなと笑って馨君の肩を叩いた。
「いつもは姫がここで寝ているのだが、今日は客人に開け渡したらしいな。この部屋から見る朝の景色は美しいんだ。お前、俺の名を聞いて下がるということは臣家の者らしいが、父は身分が高いのだろう? 何者だ」
 なかなかの洞察力だな。だたのぼんやりとした宮さまじゃないらしい…。床に手をついたまま馨君は、時の右衛門佐に凛とした口調で答えた。
「私は藤原芳璃…侍従でございます」
「何だ、『馨君サマ』か。なぜこの屋敷に? 女でもいるのか?」
 自分と同じ年だというのに大人びた話し方をする時の右衛門佐に、馨君は赤くなって首を横に振った。それでは暗闇の中、見えないことに気づくと、馨君ははああと思わずため息をついて小さな声で答えた。
「違います。方違えです。ウチの家司がここの女主人と懇意にしているので」
「本当か! あのタヌキの君もやるな」
「タヌキ…この家には、姫君がおられるのですか」
「何だ、お前にはやらんぞ。それでなくても宮中の妙齢の女房たちがお前と春宮さまに夢中で、やりにくいんだからな。軒端の姫ぐらい俺に譲ってくれてもいいだろう」
「そんなつもりはありません」
 全く…時の宮君に通われていることを、あのタヌ…女主人は気づいているのだろうか。急に疲れが襲って馨君が黙り込むと、時の右衛門佐はほうと呟いて馨君の顔を覗き込んだ。
「さすが、白梅のごとき肌と評判の君。暗闇の中でも浮き上がるような白い肌だなあ。一度、宮中で見かけたが、五節の舞姫が似合いそうなかんばせをしていた」
 出仕するようになってから何度も言われて慣れたのか、もったいないお言葉でございますと棒読みで答えて馨君は頭を下げた。全く、みな飽きもせずに人を見れば似たようなことを。馨君の言葉に、大して嬉しくもなさそうだなと苦笑してから時の右衛門佐は立ち上がった。
「俺がここに通ってるのはまだ姫とお付き女房しか知らないことだから、他言無用に。よろしく頼むよ」
「はあ」
 馨君が気の抜けた返事を返すと、時の右衛門佐はポンと馨君の肩を叩いて御簾の隙間からするりと外へ出ていった。その仕草はかなり慣れていて、馨君は感心したように揺れる御簾を眺めてからのろのろと衾に潜り込んだ。ねむ…大きな欠伸をして枕に頭を乗せると、暗闇の中で目を閉じて馨君は小さく息をついた。
 時の右衛門佐といえば…元服された時期が俺と前後していたっけ。確か、正式には兵部卿宮どのの姫の元に通っていると熾森から聞いたような…俺はまだ文すら女と交わしたことがないのに。ぼんやりと考えながら、馨君は寝返りを打った。芳姫は結局、春宮の元へ嫁することが決まったけれど…水良はどうするんだろう。あいつもどこかの姫の所へ通う時が来るんだろうか。
 とめどもなく考えていると、いつの間にか眠りに落ちていた。夢の中ではずっと…水良の気配を感じていた。

 
(c)渡辺キリ