玻璃の器
 

 芳姫の裳着の日取りが決まると、宮中の公卿たちの間では同時に水良の元服も話題に上った。同じ年であられますからな、水良さまと大納言どのの一の姫君は。左大臣から言われて、兼長は左様にございますなと無難に答えた。水良の後見を絢子が努めている以上、準備の手配をするのはやはり大納言兼長の役目で、白梅院さまの手前、春宮さまに見劣りしないほどの式をせねばなあと呟いた兼長に、馨君はまたため息をついた。
 水良も皇子である以上、元服の夜には添臥しの姫が選ばれるはず。
 自分だって本来ならばわんさかと縁談話が来ているのを、芳姫の東宮妃入内のおかげで伸び伸びになってるんだから…。物憂げに考えながら宮中を歩いていると、ふいに肩を叩かれて馨君は驚いて振り向いた。そこには時の右衛門佐が立っていて、同僚に先に行ってて下さいと声をかけてから右衛門佐は馨君の隣を歩き出した。
「内緒にしといてくれたみたいだな、ありがと」
「え!? ああ…いえ」
 次の日寝坊して、言う暇がなかっただけなのだが、曖昧に返事をして馨君は曖昧な笑みを浮かべた。闇の中で鉢合わせした時は顔は見えなかったけれど、その声と話し方ですぐに誰だか分かった。今日の時の右衛門佐は武官の束帯を身に着けていて、自分よりも背が高く、優しげな目をしていた。
「蛍宮さまに、似ておいでですね」
「父上に会ったことがあるのか?」
 馨君の言葉に時の右衛門佐が尋ねると、宮中の管弦の宴では必ず笙を吹いていらっしゃるではありませんかと馨君は答えた。琵琶の時もあるな。そう言って笑うと、時の右衛門佐は馨君の耳元でコソッと囁いた。
「軒端の姫のこと、義父上どのは知らないんで。ま、当然だけど。鳴姫が泣いたら困る」
「なら、しばらくは兵部卿宮さまの姫君お一人になさればどうですか」
 呆れたように馨君が言うと、時の右衛門佐は肩をすくめて答えた。
「縁が向こうから飛んでくるんだ。無理強いしたことなど一度もないぞ」
 それじゃ、また。そう言って屈託なく笑うと、時の右衛門佐は手を挙げて駆け出した。ホントに同じ年なのか? まだ少年らしい顔つきの中にも、馨君よりもずっと大人びた表情を時の右衛門佐は持っていて、焦るなあと心の中で呟きながら馨君は中務省へ向かった。
 色好みという点を除いては、明るくて物知りで、歌や笛の上手い右衛門佐はよい友人と言えた。芳姫の裳着の準備に追われながらも宮中で会うたび何度か立ち話をしている内に親しくなって、右衛門佐は侍従の詰め所にいる馨君の元へもぶらりと尋ねてくるようになった。宮家出身とはいえ源、臣籍の友人を持つのは馨君にとっては初めてのことで、真面目な惟彰や、おっとりとして少し変わっている水良に比べると、下世話な話もできる年相応の友人となった。
「一の姫はお前に似てるんだってな。さぞかし美人だろうなあ」
 その日は時の右衛門佐が宿直で、陣に詰めていた右衛門佐を訪ねると、近衛少将や兵部省の役人たちも遊びにきていた。みんな自分よりもわずかに年上ばかりで、馨君がよろしく願いますと頭を下げると、同じ年代の男の中でも小柄な馨君を取り囲んで近衛少将が感心したように言った。
「春宮坊大夫どのに聞いたんだけど、一の姫はお前にそっくりなんだって? 春宮さまがそう仰られていたらしい。なら、相当な美しさだろうなあ」
 そう言われてきょとんとすると、瓶子(へいし)を囲んで座っていた他の若者たちを見て馨君は首を横に振った。
「そりゃ似てるかと言われれば兄妹だから似てなくもないけど…俺はおばあさま似で、姫はおじいさまに似てるし」
「そんなこと言って、興味を持たせないようにするためなんじゃないのか?」
 笑いながら言った時の右衛門佐に、馨君はとんでもない!と赤くなった。確かに可愛くないことはないが…見慣れているせいか、姫を見てもおてんばが先に来て可愛いという印象が一番に浮かばない。考え込んでしまった馨君を見ると、近衛少将が苦笑いして酒をついだ。
「まあ、今さら一の姫さまに手を出そうなんて大それた者はいないだろう。春宮さまは穏やかそうに見えて怒ると恐い方だからな」
「…」
 芳姫の元へ馬を駆ってきた時の惟彰を思い出すと、馨君は黙って酒の入った杯を取り上げた。酔わないようにチビチビと舐めていると、次第に内裏の女房の中で美しい者は誰かという話になった。お前は誰だと思う? 時の右衛門佐に話を振られてしどろもどろになると、馨君はあまり見たことがないけれど…と呟いてから、ふいに水良と再会した時に付いていた女房を思い出した。
「あ、藤壺にいる朝顔どのは、美しいな。水良さまと一緒にいる方。本当に朝顔に露が下りて後に花が咲いたような顔をしていた」
「朝顔? …ああ! 王命婦どのの遠縁とかいうのだろう。伊予から来たとか」
「さすがに水良さま付きの女房は、見たことがないな。でもまあ、美しいのだろうな。内裏の最深部だし。春宮坊大夫どのが、若い女房などつけてはいずれ水良さまのお手がつくかもしれんとぶつくさ言ってた」
「春宮坊大夫どのは、自分が娘を内裏へ入れたかったのだろう。でもなあ、一向に女房仕えをしているという話は聞かないし、あのご面相では娘もしれているだろうよ」
 近衛少将の言葉に、場がさざめいた。笑い声の中で、ドキンと疼いた胸を抑えて馨君は杯を傾けた。そんなこと…考えたこともなかった。でも、内裏の女房に主上や親王の手がついて、気づいたら子ができていたとか、そんな話は腐るほど父上から聞いていたのに。
「俺はそんな奥の女房よりも、少し寂れたような邸でひっそりと俺を待っているような女の方が好みだな。内裏の女房は気位が高くてコワイよ」
 時の右衛門佐が言うと、お前はそういうの好きだよなとからかって、近衛少将は隣にいた馨君の顔色に気づいて大丈夫かと声をかけた。何でもありません。そう言って軽く笑ってみせると、馨君は大きな目を伏せて杯を置いた。

 
(c)渡辺キリ