玻璃の器
 

 久しぶりに熱を出した馨君は、無理に出仕しようとするのを女房や熾森に止められ、自室で休んでいた。
 熱に浮かされながら眠っていると、手を柔らかく握られたような気がした。それは以前、桐壺で水良に膝を貸した時に手を握られた感触にとてもよく似ていた。重い意識を追いやって目を開くと、占い好きの母親が陰陽師と護摩を炊く法師の両方を呼んだせいで庭先が騒がしかった。
「…馨君さま?」
 ふいに若葉の声がして、馨君はぼんやりと焦点の合わない目で御簾の方を眺めた。具合はいかがでございますか? いつもはハキハキと馨君を叱りつける若葉が、おろおろと心配そうに尋ねた。大分いいよ。そう答えて馨君が起き上がろうとすると、その気配に気づいて若葉が中に入ってきて馨君を支えた。
「薬湯を持って参りました。それと、弟宮さまが」
「水良?」
 熱で赤い顔をして馨君が若葉を見上げると、若葉は頷いて薬湯を入れた椀を馨君に持たせた。
「出仕していないので、病気かと思って見舞いに来たと。今、北の方さまが応対していらっしゃいます」
「相変わらず突然だな、あいつは」
 苦笑いして馨君は薬湯を口に含み、飲み込んでからまずいと呟いた。まずいのがよく効くんだって薬師が言ってましたもの。笑いながら空になった椀を受け取ると、若葉は馨君をまた寝かせて衾をかけ直した。
「いかがいたします? お会いになりますか?」
「…こんな格好だから、嫌だ。明日は大内へ行くと伝えて…あ」
 緩んでほつれた馨君の髪を櫛で軽く直す若葉の後ろで、御簾向こうに人影が立った。若葉が振り返ると、追い返すのか、冷たいなという水良の声がした。若葉が立ち上がって御簾を上げようとすると、水良はこのままでもいいよと言って廂に座った。
「今、円座をお持ちしますわ」
 そう言って若葉が座を作ると、そこに座り直して水良はお見舞いに来たんだけどと言った。病気かどうかも知らないで来たんだろ。若葉が下がるのを見ながら馨君が答えると、水良は笑った。
「母上から水菓子をもらってきたから、後で食べろよ」
「ありがと。でも、ホントに大丈夫なんだよ」
 小さな声で馨君が言うと、水良はどこがだよ…と心の内で呟いてからふいに立ち上がった。帰るのかな。ぼんやりとその影を馨君が御簾越しに見上げると、水良は御簾をめくってするりと中へ入ってきた。
「い、今、だらしない格好をしてるから」
 あわてて衾の中へ潜り込んだ馨君に、水良は笑って子供の頃はもっとひどい格好だったろと答えた。意地悪だな…。目だけ出して水良を見上げた馨君の額に、水良は手を伸ばして触れた。
「熱いな。疲れが出たんじゃないの? 今、大変なんだろ?」
「…うん、まあ。でも、いずれはやらなきゃいけないことだし」
 馨君が起き上がろうとすると、そのままでいいよと制して水良は乱れた衾を直した。そんなこと若葉に頼めば。そう言った馨君に、水良はそばにまた座って答えた。
「いいよ、これぐらい。芳姫の裳着のおかげで、俺の元服が延びたから、馨君や兼長どのには感謝してるぐらいだよ」
「決まってたのか? 日取り」
 驚いて馨君が尋ねた。来年辺りどうかと言われてた。水良が答えると、後ろから御簾をめくって若葉が高杯を他の女房に持たせて入ってきた。
「まあ、やはり中にいらしたんですのね」
「ごめん、若葉」
「今、御簾を上げますわ。馨君さまも起きておいでなら、明るい方がよろしいでしょ」
 頼むよ。馨君の言葉に、若葉がするすると御簾を上げた。急に部屋の中が明るくなって、水良の顔がよく見えた。今日は白い童直衣を着ていた。
「元服したら、添臥しの…」
 ずっと気になっていたことを言いかけると、馨君は口を閉ざした。他の女房たちが同じ間に控えていた。しばらく黙ると、水良はふてくされたように目を伏せた。
「俺は妃はいらないってずっと言ってるんだけど…父上がうるさいんだ。おじいさまも文でどこぞの姫が美しいらしいとか、どこそこの姫は楽に長けているとか、そんなことを書いて寄越すんだけど」
「…それは、そうだろうな」
「桃園(ももぞの)の外れに、母上が持っている小さな屋敷があって、元服したら何とかそこを譲ってもらえないかと頼んでみたんだけど、ダメみたいだ。女房や従者を住わせるとは言っても、一人であんな小さな所に住むなんてって叱られた」
「桃園っていうと…京の外じゃないか。そりゃ反対されるだろうな」
「でも、式部卿宮どのも、あちらから参内なさるだろ。五条や六条に比べればすぐ近くじゃないか」
 まるでいたずらが見つかった子供のように視線を伏せた水良を見て、馨君は枕に頭を預けた。そうなれば…いいのにな。でも、皇孫であり皇子でもある水良が、妃も娶らずに桃園に移ってしまったら…変人扱いされるだろうな、きっと。
 今上(きんじょう)の兄宮で、妃を娶らず三十代で出家した会恵法師を思い出し、馨君はうーんと呻いて目を閉じた。主上から会恵さまが描いた絵を受け取るよう言われて一度だけ宇治へ尋ねたことがあったけど、ちょっと恐い方だった気がする。宮中でも変人との噂も高いし。目を閉じたまま考えて、馨君はそっと水良を見上げた。
 水良も会恵さまのように変人だっていう噂が立つだろうな。今は子供だから、誰も何も言わないけど。
 でも…俺にとってはその方が嬉しいかもしれない、なんて。
「もし、どうしても内裏を出たいと言うなら、三条邸に住めばいいよ、水良。俺からも父上や叔母上に頼んでみるよ…芳姫が入内すれば、また東の対が空くんだし」
「それはよいお考えですわ。若葉も水良さまなら、よろこんでお迎えしますわよ」
 笑いながら若葉が言うと、水良ははにかんだように笑ってありがとうと答えた。その柔らかな眼差しを見て赤くなると、まだ何も決まったわけじゃないけれどと呟いて馨君は目を閉じた。

 
(c)渡辺キリ