夜になると熱も下がって、体を拭いてもらった馨君は九月菊のかさねの直衣に着替えて夕食を摂っていた。
「あまりご無理なさると、明日に差し障りますからね。またすぐお休みになって下さいよ」
口うるさく言う若葉に、今日だけは感謝かなと黙って湯漬けを食べていると、女房の一人が衣擦れの音をさせて御簾向こうに控えた。何用かしら。若葉が声をかけると、女房が芳姫さまがおいでにございますと告げた。
「まあ、お珍しいこと。どうしましょう、まだお食事中なのに」
「いいよ、もう終わるから」
最後に椀の底に残った湯漬けをサラサラと口に入れると、息をついて馨君は膳を下げるよう女房に頼んだ。他の女房が几帳や円座、脇息などをしつらえていると、ちょうどいい頃合いに先導の女房に続いて芳姫が顔を出した。
「兄上、お加減いかが?」
「大分いいよ。ありがとう」
相変わらずざっくばらんな芳姫の言葉に馨君が笑って答えると、芳姫はゆったりとした動きで下座に座った。几帳はいいわ。間に几帳を立てかけようとしていた女房に言うと、芳姫は扇を開いてニコリと笑った。まだ少女らしいあどけなさを見ると、馨君はそういえば…と言葉をもらした。
「みんなが、芳姫は美しい姫なのだろうと噂してたけど」
「え? どちらの方が?」
ふいに言った馨君の言葉に芳姫が驚いて尋ね返すと、馨君はいたずらっぽく笑って答えた。
「時の右衛門佐どのや、近衛少将どのだよ。こないだ、お前の入内の話になった時だっけ」
「本人の知らぬ間に、そのような話をされているんですのね」
苦笑した芳姫は、それで?と好奇心一杯の表情で続けて尋ねた。それでさ。言いかけて脇息にもたれ、馨君は足を崩した。
「俺はお前が美しいかどうか分からないから、おじいさまに似てると答えたよ。でも、よく考えるとみなは前内大臣どののことかと思ったかもしれないな、と思ってさ」
「まあ! おとどのおじいさまは、でこっぱちの末摘花(紅花の別名)でいらっしゃるじゃないの! ひどいわ」
「それも入内すれば、また新しい噂が立つだろ。新しい東宮妃はおてんばで口が悪いって」
そう言って笑うと、馨君は目を細めた。ムッとしている芳姫が、ふいに表情を改めて尋ねた。
「兄上、内裏ってどんな所?」
それはもう何度も聞かれたことで、馨君もふと真顔になってからうーんと呟いた。
「そうだな。とても華やかな所だよ」
「それで?」
「女房がみんな、正月のように着飾っていて」
「…それで?」
「主上の妃さまたちは、みなお優しくて美しい方ばかりだよ。今麗景殿さまは左大臣どのの三の姫さまで、権力を鼻にかけない控えめでたおやかな方だってこないだ言っただろ。梅壺女御は主上よりも五歳年下であられて、ふっくらとした顔立ちのお優しい気さくな方だし」
「うん、それは前にも聞いたわ。それで?」
「王尚侍どのは、今は気分がすぐれないそうで里下がりをされていて、まだお会いしたことはないな。でも、琴の琴がとてもお上手で、内裏にいらした頃に行われた女楽では必ず琴の琴を披露されたって。主上は高位の妃が少ない帝であらせられるから…今の左大臣どのがご隠居されて父上が左大臣に昇格すれば、叔母上が中宮になられるのではないかと言われている」
「今は藤壺女御さまでしょう?」
「主上が院になられた後、叔母上も内裏を下がるようなことがあれば、お前が入るのは間違いなく藤壺だろうな。惟彰さまが主上となった後は、お前が藤壺女御だ」
「私が!?」
ただ惟彰のことばかり考えて、自分が将来の主上の妻になることはすっかり忘れていたのか、驚いて芳姫はそういえばそうなんだわ…と呟いた。やるせなさそうにはああと大きなため息をついた芳姫を見て、馨君が何?と尋ねた。
「ちゃんとやっていけるのかしらって、不安だわ。春宮さまには、もう二人も妃がいらっしゃるのよ」
「あ、そういえば濃姫さまにもお会いしてきたよ。ずいぶん前になるけど」
言うの忘れてた。馨君が身を起こすと、芳姫は真っ赤になってそんな大事なこと!と声を大きくした。ゴメンゴメン。首筋をかいて謝ると、馨君は困ったように口を開いた。
「濃姫さまは、春宮さまが仰るような内気な方でも、無口な方でもなかったよ。むしろよく話すお方だったかな…」
「そうなの? 女房たちに聞いたら、噂では絵のように美しい方だって言ってたけど」
「うん、まあ…顔は見られないけど、声やたたずまいでお美しいのだろうなとは思った」
馨君が答えると芳姫はムッとして、見てもいないのに適当なことを言って…とぼやいた。脇から若葉にツンツンとつつかれても意味が分からずきょとんとして、馨君は言葉を続けた。
「濃姫さまが東宮妃になられた時、惟彰さまがまだ若すぎるからという理由で同衾を拒んだという話だったから、濃姫さまも惟彰さまと上手く話せないんだろうと熾森が言ってた。あいつ、やっぱり目敏いというか耳聡いというか、そういう情報はすぐにどこからか仕入れてくる」
苦笑した馨君に、なら兄上からじゃなく熾森から聞けばよかったわと憎まれ口を叩いて、芳姫はブスッとした表情で脇息にもたれた。可愛くないなあ。馨君もムッとして言うと、まあ入内前で敏感になっているのだろうと考えながら言葉を付け足した。
「内裏には叔母上もいるし、本当の母のように頼ってちょうだいと仰っていたから、姫は心配することないよ。何よりも、惟彰さまがついていて下さるのだから」
「…そうかな?」
「うん。俺もちょくちょく顔を見に行くよ。内裏には水良もいるし」
馨君が笑って言うと、芳姫はようやく身を起こして、よろしくお願いいたしますと行儀よく頭を下げた。
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