玻璃の器
 

 夜のお召しも本当なら簀子をスタスタと歩いて行きたい所を、人から姿を見られないよう几帳をずり動かしながら進まなければならない。むうっと眉をひそめながらも、その労力を裂いてくれている女房たちの手間を考えて、周りをねぎらいながら絢子は清涼殿へ向かった。
「また怒ってるの? マメだね、絢子は」
 碁が得意な女房を相手に碁を打ちながら絢子を待っていた主上は、続きを努めてくれるかなと絢子を見上げて頼んだ。女房が下がると、絢子は主上の向かいに座って碁盤を見つめた。
「安岐の後なんて、難しいわ。勝ってるじゃないの」
「私相手だからと言って、手加減しない方だからね。容赦ないんだ」
 苦笑して碁石をパチリと打つと、主上は脇息にもたれていた身を起こした。二人にしてくれる? 振り向いて絢子が言うと、そこに控えていた数人の女房が静かに下がって行った。
「…何の話? 寝所に持ち込むには野暮な話かな?」
 絢子が打った碁石を見ると、主上はいつものように穏やかな笑みを浮かべて尋ねた。その眼差しは惟彰によく似ていた。うーん。次の手を考えている主上をチラリと見ると、絢子は身を乗り出して小さな声で囁いた。
「今日、お義父上がいらしてたの」
「知ってるよ。見かけたからね」
「あなたの所には来なかったの?」
「来ないよ。並んで座すのがお嫌なんでしょう。で、何? また何か言われたの?」
 主上が綺麗な鳥の絵のついた碁石を、パチンと小気味のいい音をさせて打った。言われたっていうか…小さくため息をついて、絢子はまたすぐに碁石を打ち返して続けた。
「惟彰のこと聞いてみたの。聞かなかったら、また後でごちゃごちゃ言われると思って」
「『朕には一言の相談もなしか。もう朕は内裏には必要のない人間ということだな』」
 厳かに白梅院の口調の真似をして、主上は笑った。絢子も思わず笑うと、そうじゃなくて!とあわてて表情を改めて絢子は主上に詰め寄った。
「そしたら、頼善どのの姫がいいって言うの」
「頼善どの? 文章博士の?」
 主上が顔を上げると、ずりずりと隣ににじり寄って絢子は頷いた。どう思う? 絢子が尋ねると、主上は少し考えてから碁石を打った。
「難しいね。両大臣が黙っていないだろう。どちらのお方も、孫娘を引き取ってでもと言ってるらしいからね」
「相変わらず耳聡いわね。一体どこで聞いてるの?」
 絢子が感心したように言うと、主上は絢子の番だよと碁盤を指した。絢子が横から少し考えて碁石を打つと、主上はまたすぐにパチリと碁石を打って口を開いた。
「実は、権大納言行忠どのから二の姫を添臥にと、話があった」
「…藤原行忠どの?」
「うん。年頃も一つ上でつり合うし、いずれかは迎えなければならない姫だろう」
「そりゃ…行忠どのなら、兄上と官位を競り合っているぐらいだもの。でも…」
「絢子、芳姫がよかったんでしょう」
 ニヤリと笑って主上が言うと、絢子は赤くなってそんなことはないけど…と言葉を濁した。
「お義父上に釘を刺されたわ。芳姫は水良にって言われちゃった。もし、兄上も主上もそうお思いならしょうがないわね」
 絢子の言葉に、主上は絢子の手をつかんでそこに唇を寄せた。可愛い人だね。そう囁いて笑うと、主上は絢子を引き寄せて艶やかな髪をなでた。
「父上は水良が不憫なんだろう。院でなければ、水良を東宮にという気持ちもあったに違いない。でも、兼長どのは惟彰を差し置いてぜひ水良にとは言わないだろう。妾腹ならともかく、たった一人の正室の姫だからね」
「遠回しにでも、あなたからは兄上に言わないで…惟彰はそういうことに敏感だから」
 主上の肩に頬を押しつけて絢子が囁くと、主上はそっか…と呟いて絢子を抱きしめた。惟彰には私から話そう。そう言って絢子から手を離すと、碁盤を見つめて主上は続きどころじゃなくなっちゃったなと笑った。

 
(c)渡辺キリ