玻璃の器
 

 惟彰の元服は、陰陽寮(おんみょうりょう)が吉日を占って執り行われた。
 総角を解いた髪を結い上げ、長さを整えると、それまでの子供らしさが急に抜けて大人びた表情になった。その後、祝詞が読み上げられて冠を被せられると、少年の初々しさを残しながらもますます主上そっくりの立ち姿になり、参列していた大臣たちが感嘆の息をもらした。
 芳姫に心を残しながらも、それが東宮の務めなのだからと堪えて、惟彰は黙って権大納言行忠の二の姫を妻に迎えた。初めて対面する二の姫、濃姫は顔立ちは美しいものの気位が高く、どこか取っつきにくかった。
「初冠を終えたとはいえ…私は、まだ自分が大人になったとは思えません」
「…」
「あなたと本当の意味での夫婦になるために、もう少しだけ…時間をいただけませんか」
「…春宮さまの仰せのままに」
 それが、惟彰のできる最大限の抵抗だった。惟彰の言葉に、単衣姿の濃姫は衾の前で手をついて目を伏せた。ごめんなさい。惟彰が申し訳なさそうに呟くと、濃姫は顔を伏せたまま固く目を閉じていた。
 四月の衣替えが終わると、急に初夏の匂いが宮中を吹き抜けた。それは兼長邸にも届いて、馨君の角髪を揺らした。惟彰から何度も非公式の文をもらっていた芳姫は、無難な返歌を返しながらも惟彰の添臥に父のライバルである行忠の二の姫が努めたことを聞いて心を乱していた。
 アタシのこと、そんなに言うほど好きじゃなかったのかしら。
 まだ九歳で、裳着を行うには早すぎる自分の年齢は棚に上げて、芳姫は御簾を上げさせて庭を眺めながらふうとため息をついた。あれから一度も会ってないんだもん。もうアタシのことはお忘れなのかもしれないわ。脇息に両手を乗せてその上にアゴを置くと、芳姫は広げっぱなしの絵巻物をぼんやりと眺めた。
 女の子なんて、つまらないなあ。
 兄上は相変わらず、庭を駆け回って遊んでいるというのに。目を閉じてまたため息をつくと、ふいにバタバタと簀子を駆けるような音が響いて馨君がひょいと顔を出した。惟彰からだってさ。そう言って手に持っていた藤の花をポイと投げた馨君に、芳姫は驚いてガバッと身を起こした。
「嘘! 何で兄上が…」
「さっきそこで、惟彰の従者に会ったんだ。おっかしいの。アイツ、まだ俺のこと女房かなんかの子だと思ってるみたいでさ。昨日の藤花の宴でもらったんだって言って、お菓子くれたんだ」
 お前にやるよ。そう言って懐紙に包んだ袿心を取り出すと、一つ口に入れてから残りを芳姫に渡した。いつか春宮さまから袿心をもらったことがあったなあ。一つつまんでぼんやり眺めると、芳姫はそれをくわえて藤の花に添えられた文をガサガサと開いた。
「…春宮さまの字だわ」
 嬉しそうに呟くと、芳姫は思わず表情をほころばせて目を細めた。そこには、他の姫との噂をあなたは耳にされたでしょうが、その噂はただの噂ですよ。あなた以外のことは心に留めることもできませんとやんわり書いてあった。ホントかしら。怪訝そうな表情で文を何度も読み返すと、芳姫はそばで控えていた女房に硯箱を取りに行かせた。
「どう思う?」
 芳姫が文を馨君に見せて尋ねると、馨君は首を傾げて意味が分からないと答えた。あのねえ。呆れたように文を取りかえすと、女房が持って来た硯箱を開いて墨をすりながら芳姫はまるで姉のように叱り口調で言った。
「兄上だって、元服して出仕するようになったら歌の一つや二つ、書かなければ恥をかくわよ」
「…だって面倒なんだもん」
「今の内に練習しておきなさいよ。歌も分からないなんて噂されたら、兄上だけじゃなく父上も恥をかくわよ」
 もう、うるさいなあ。そう言って立ち上がると、馨君はぷいと御簾の外へ出ていった。いつまでも子供なんだから。今度は親のような口調で言うと、芳姫は返歌を考えながら文に添えられていた藤の花を手に取って微笑んだ。

 
(c)渡辺キリ