玻璃の器
 

 外を駆け回ったり市に出かけたりして遊び倒していた馨君は、女房たちの色事を耳にすることもなく、また魅力的な姫の噂を耳にすることもなく、十一歳になっても幼年の頃の無邪気さを留めていた。惟彰が元服したと聞いてもまるでひと事で、今度は自分の元服式だというのにと兼長の頭を痛めさせていた。
 白梅院の意向を無視できないと、主上が東宮傅源頼善の姫、澪姫を春宮の妃として迎えることに決めたのは、惟彰が元服を済ませた次の年のことだった。冬の参内時の制服である白表に裏二藍の直衣を着たまま、兼長が母屋へ戻ってくるなり北の方に話した。そばで火桶(ひおけ)に当たっていた馨君は、大きな目を父親へ向けて尋ねた。
「…芳姫は、惟彰から正式に求婚されるのを待ってるみたいだけど」
「春宮さま、もしくは惟彰さまと呼ばんか。もう子供の頃とは違うんだぞ」
 青くなって言った兼長に、馨君は惟彰さまと言い直して火桶に手をかざした。可哀想に。また泣くんだろうな…真っ赤になった炭を眺めて馨君がうーんと呻くと、兼長は女房に持ってこさせた酒を北の方についでもらいながら言った。
「春宮さまに差し上げるなら一の姫をとワシも思っておったが、先日、白梅院さまにご機嫌伺いに参ったら、水良さまと一の姫との縁組みをほのめかされたわ。水良さまとはワシも予想外でな、相づちも打てなんだ」
「水良? あいつに縁談話だって?」
「水良さま。さまを付けんか」
 おかしさに吹き出しそうになった馨君を咎めて、兼長はふうっと長いため息をついた。何を考えておいでなのかと一人ごちて、それから異様に似合う馨君の角髪姿を眺めてまたため息をついた。
「水良さまはお前より一つ年下だというのに、近頃、随分と大人びておいでになったぞ。子供っぽいなりで遊び回ってるのはお前だけだ」
「元服するまではこのままでいいって、おばあさまも仰ってたもん。角髪もよく似合うって。いずれ大人になるのだから、あわてて背伸びしなくてもいいって」
「それはお世辞! 全く…」
 ぶつくさ文句を言っている父親を横目に、馨君は火桶の炭を火ばしでつつきながら目を細めた。水良か。もう随分会ってないな…。最後に会ったのは確か…一昨年の、確か朝顔が初めて咲いた日だった。五条に乳母が住んでいて、そこに咲いていたのだと持って来てくれた。あの時は水良もまだ七歳で、あどけない顔をしてたけど…ふいに立ち上がると、馨君はおやすみなさいませと唐突に言って部屋を出て行った。
 水良はまだ、俺があげた紙作りの鳥を持ってるだろうか。
 考えながら自分の部屋に戻ると、馨君は若葉を呼んだ。
「若葉、紙をくれないか」
 今年、裳着を終えたばかりの若葉は、結婚してからも女房として兼長邸に残っていた。切り刻んでおしまいになるなら、あげませんよ。若葉が言うと、馨君は首を横に振って若葉を見上げた。
「文を書くから」
「え…まあ、まあ!」
 ちょっと早すぎるんじゃありません? そう言いながらも若葉は嬉しそうに他の下級の女房に言いつけて硯箱と紙を準備させた。歌の上手い豊島を呼んでこなくちゃ。そう言って出て行こうとする若葉の袖をつかんで、馨君はあわてて言った。
「違う違う。水良に書くんだよ」
「え、弟宮さまに?」
 がっかりしたように振り返って言うと、脇息のそばに座った馨君を見て、若葉も下座に控えた。
「何でまた、今頃? もう戌の刻でございますわよ」
「分かってるよ。明日の朝、一番に持って行ってもらうんだよ」
「それなら氷かさねでよろしいですわね」
 消息用に使われる薄紙を重ねた白い紙を取り出すと、丁寧にお書きあそばしませよと言って若葉は硯に水を入れた。最近、呉竹に似てきたな…黙ったまま丁寧に濃く墨を擦ると、馨君は懐紙に下書きを書きつけてから一気に筆を滑らせた。
「うん、手は、なかなか」
 まるで自分が書いたように自慢げに言うと、若葉はにこやかに馨君の大らかな筆蹟を眺めた。それから、ん?と眉を寄せて歌を読み返す。
「…馨君さま」
「何」
「これじゃ…男の訪れが途絶えて、心変わりを嘆く年増のようですわよ」
「え?」
 馨君は赤くなって歌を読み返すと、そうかな…と呟いて首を傾げた。最近、会ってないけど何してんの? こっちからはなかなか会いに行けないんだから、お前から会いに来てくれないと間が遠のくばっかりだよ。そんなことを意味する歌を書きつけたつもりだった。書き直した方がいい? 馨君が尋ねると、若葉はやっぱり豊島を呼んで参りましょうかと呟いた。

 
(c)渡辺キリ